風唄の行方 【第零章 蛍火の夢】
目の前に舞う雪が光をはじく。
それを見る度に、あの頃のことを思い出す。
仄かな明かりを散らしながら舞い遊ぶ蛍の姿。
もう二度と見ることができない幻影の光を、私は未だに忘れていない。
✽ ✽ ✽ ✽ ✽
シティ・長野近域にある山間の孤児院の『遊戯室〜ゆうぎしつ〜』と漢字とひらがなで書かれた部屋の扉を男は開ける。
そこそこの広さを持つ部屋の中には、これでもかと言うぐらい乱雑におもちゃや絵本が散らばっている。
男は部屋の中心部に座り込んでいる部屋を散らかした張本人だろう人を見た。
広い室内のど≠ェ付くぐらい真ん中、数々の散らかし品を乗せた円状のカーペットの上に座る……というよりも這っている状態の、五歳になるかならないかに見える幼い少女。
少女は立つ事もなくゆっくりとその部屋を這い回り、何を思ってか腕を伸ばして身体を起こしてはバランスを崩して倒れこんでいた。
年に似合わない、緩慢で鈍重な動き。
その理由も何もかも、少し離れたところから見守っている男には分かっていた。
重い脳障害。
脳の一番外側、大脳新皮質に食いこんだ悪性腫瘍のために、脳内血管と神経細胞の一部が圧迫され、幼女は高度な思考力も言葉も持っていなかった。
そして、彼女の両親はすでに、幼き娘を見限っている。
ここに幼女を置き去りにした地点で、それは明らかな事だった。
「あ―…………」
そばで見つめていた男に気が付いた幼女が、発音の変化がまったくない声を上げる。
男は彼女のそばに歩み寄り、足元にいる少女を見下ろす。
「あ―…………」
幼女は目の前に立った男に対し、笑いかける。
その顔に浮かぶのは邪気のまったくない笑み。
あまりに警戒心のない微笑を浮かべ、幼女はまっすぐに男の方へと丸く組んだ手を伸ばした。
手の中からこぼれる黄緑色の光。
「蛍か……もう、そんな季節なんだな」
わずかに呟く。
さっきから懸命に上へと手を伸ばしていたのは、部屋の中に迷い込んだ蛍を捕まえるためだったらしい。
潰さないように力の加減をしたらしく、蛍はまだ生きている。
だが、この先どうするかという判断を彼女はできない。
何にでも興味を持ち、誰かに見せたいと思う子供のように、ただ捕まえてみただけ。
自分が何かの命を握っているなど、露ほどにも思っていない。
彼女の手の中で揺れる蛍と、少女の運命が男の中でかぶる。
ほんのわずかな時しか生きる事を許されない美しい虫。
綺麗なのに不完全で不安定な幼女。
根本的なところで、この二つはよく似ていた。
あどけない笑みを浮かべる幼女の前で、男はぎこちない笑みを浮かべた。
普通の者が見れば、それが苦笑だと分かる。
――この娘は実験体になる
そう聞かされていた男は幼女に対し、素直に笑い返す事ができなかった。
治る見込みのほとんどない病気を抱える、親にすら見捨てられた子供をただただ保護するだけの余力は、もうこの孤児院にはない。
苦渋の選択でもある。
だが、それしかもう残されていないのだ。
「あ―……?」
脳を病魔に犯された幼女には、男が示した表情の意味が分からない。
ずっと微笑を浮かべるだけ
あまりにも無垢で、あまりにも無邪気な微笑を……
「……すまない」
無垢な幼女に手を伸ばす。
彼女の手から、淡い燐光を放つ蛍が飛び去った
「あ……」
再び捕まえようとした幼女の手が虚空をさまよう。
男はそれを捕まえてやろうかと手を伸ばしかけて、止めた。
捕まえたところで時間はない。
もう、彼女が蛍をゆっくりと眺める事はないのだから……
彼女は今晩、ここから何千キロも離れた場所に送られる。
もう二度と、この場所に帰ってくることはない。
「『魔法使い≠作るために、この娘は実験体になる』、か。幼い娘の病気すら治せず、何が魔法≠セ」
わずかな苛立ちと共に吐き出された本音。
それでも、男は反対できない。
少女の犠牲で、他の多くの子供達が救われる。
たった一人の少女と大勢の子供達
天秤の傾きは、見て明らかだった。
上に伸ばされた彼女の手を自分の肩に回させて彼女を抱き上げる。
くるりと儚き光を背にし、男は部屋へと続く扉を閉ざした。
……もう二度と、この娘は蛍火を見る事はないだろう
✽ ✽ ✽ ✽ ✽
少女はもちろん、彼女を連れ去った男でさえ知らない。
部屋の外と中で夜闇を舞い遊ぶ淡き蛍火。
この光景が、半永久的に失われてしまう日が来るという未来を……
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