「黒き涙は紅き翼に」
第零章 刃と刃と土塊と
少年は、ずっと昔から、[騎士]になりたかった。
『ずっと昔』と言っても精々2〜3年前の話だが、
彼のその夢は軍に入り大戦の最前線に配属されても、
派遣先でどれだけ敵兵士を撃ち殺す事になっても、一点の曇りも見せなかった。
彼は戦場と言う現実で[騎士]を見て、それでも尚[騎士]に為りたいと願った。
自分の行動が、何処かで誰かの笑顔を守っているのだと、
少年はなんの根拠も無く信じていた。
『天樹機関・第二騎士開発実験』――実際には当時騎士開発の第一人者であった天樹博士の名を、 体よく利用した新型I-ブレインの定着実験。
葉崎柳は、何も知らなかった。
その純粋さは無知と言っても良い程で、
そしてその無知さはシティの研究員にとって好都合以外の何でも無かった。
ただ[騎士]に憧れ、その有り方だけを信じて、少年は手術台に上がった。
最後まで、自分の剣が誰かを救えるのだと信じて。
――そして、
少年。――葉崎柳は、騎士にはなれなかった。
2185年、7月23日。
今から十年前の、変わらぬ灰色の空の世界で起こった。
たった、それだけの話だ。
(攻撃感知。敵軌道予測完了。回避可能)
I-ブレインの叫びのままに、大地を蹴り付け後方に跳躍する。
遅れて、絞り込んだ様な闇色の塊が半瞬先まで祐一が空間を切り裂いた。
18倍に加速された視界の中、その塊は常識を逸した速さで襲いかかってくる。
相手の運動速度を自分の視覚加速率を基準に逆算。弾き出された結果に血の気が引いた。
推定運動速度は此方の7倍以上。
知覚速度に至っては、此方の認識の範囲にすら当てはまらない値だ。
――侮っていた。
自分の迂闊さに、[黒衣の騎士]…黒沢祐一は、砕けるほど奥歯を噛み締めた。
指令があったのは30分前。
「h-3地点で、騎士一名が暴走。全力で捕獲、不可能な場合処分せよ。概要は――」
通信兵から任務の通達。それを祐一は程々に聞き流していた。
この戦場下で心を壊していく魔法士には、これまで幾度と無く会ってきた。
そういう『壊れた』魔法士を『処分』するのも、[騎士]の役割だったからだ。
決して気分の良いものではないが、何度もやってきた在り来りな任務。
[騎士]という圧倒的優位から来る僅かな油断。
一瞬の判断が生死を分ける戦場において、それは致命的な隙を生んだ。
(大規模情報制御を感知)
そのとき、足元に絶望的な浮遊感。
一瞬の自失から立ち直り、全方向に向けた視認知覚が、崩壊しかけた大地に漆黒の騎士剣を突き立てる、少年の姿を捉えた。
自分と相手、二人だけを飲み込むように大地を『情報解体』したのだと、
ようやく気付いたときには、祐一の体は虚空へと投げ出されていた。
どれほどの運動加速度があろうが、蹴るべき大地が無い以上、
空中では移動手段としては、機能しない。
殆んど反射的に、I‐ブレインが動いた。
(騎士剣「冥王三式」完全同調。
光速度、万有引力定数、プランク定数、取得。「自己領域」起動)
微かな『空間の揺らぎ』が周囲を多い、世界が『主観的に静止』する。
少年は、動かない。
運動係数制御の性能から言って、相手が自己領域を展開できるのは間違いない。
しかし、此方が先手を取った以上、体感時間では5分ほどの時間は稼げている筈。
祐一は、現実味を無くした酷く無機質な世界を通常の物理法則を切り裂いて駆け、
完全に無防備な少年の背に、照準。
――仕留める
(「身体能力制御」発動。容量不足。「自己領域」強制解除)
後は、加速した剣戟を叩き込む。それで終わり。――の、筈だった。
だが、祐一は気付いてしまった。
少年の口元に浮かぶ、虚ろな笑みに。
まだあどけなさを残した顔。一兵卒の身でありながら、何故か何時も自分の後ろに付いて来ていた、少年の横顔に。
…祐一さん。僕は――
(思考ノイズ。演算処理を百ナノ秒(一千万分の一秒)中断)
一瞬の迷いに気付いたときには、漆黒の乱舞が祐一に襲い掛かっていた。
甲高く響く金属音。一撃、二撃目を何とか凌ぎ、それ以上は運動速度の差に付いていけず、浅く右肩を斬られ、鮮血が噴出す。
――くっ!!
体制もままならないまま、騎士剣を前方に突き出し、
弾かれた衝撃でそのまま後方に逃れる。
(攻撃感知。回避可能。危険)
攻撃は、真上から襲ってきた。
とっさに構えた騎士剣を、膨大な質量差をもって弾き飛ばされる。完全に無防備になった視界に、諸手に剣を構えなおす少年が映る。
そしてそのまま、何のためらいも抵抗も無く、漆黒の騎士剣が胸元に吸い込まれ――
(『軍規』に抵触。I-ブレイン全システム、基礎レベルに固定)
メッセージがI-ブレインに表示され、一瞬の判断で防御を捨て、振りぬいた右腕が力を失う。
『軍規』――少年に支部の制御中枢を破壊され、後手後手となった魔法士の拘束プログラムが、ようやく発動されたのだろう。
情報制御の恩恵を剥ぎ取られ、情報解体によって陥没した地面に叩きつけられた少年は、
落下点の解析を終えた第二のプログラムに、肉体の動きまで封じられる。
数秒後、空中に取り残されていた大地が情報構造を取り戻し、
砂礫の雨となって降り注いだ。
極寒の世界に落ちる褐色の雨に、表土に叩きつけられ砕け散る土塊に、
少年の行く末を重ねて、祐一は苦い物が込み上げるのを感じた。
「…連行しろ」
駆けつけた衛兵に命令を下し、祐一はロングコートを翻し、軍用フライヤーへと歩を進める。
少年の凄惨な笑みが、胸に突きたった毒の刃を、抉りこんだようだった。
刃は砕け、粘質の液体となって血管に染み渡っていく。
全身を駆け回り、刃達は黒衣の騎士を嘲った。
後にただ広がるのは、濃い疲労感。
それを、幾らかだけ白い溜め息に乗せ、祐一は変わらぬ鉛色の空を見上げた。
――何時まで続くんだ、こんな、戦いが。
無駄な感傷なのだと、祐一にも分かっていた。
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