―――きっかけは、弥生の本棚の医学書に紛れ込んでいた一冊の文庫本だった。


少しでも「おかあさん」の手伝いが出来れば、と思って読み漁っていた医学書の山。

その中に挟まれた、一冊の本。

大部分の書籍がデータ化された現在、専門書といえど紙媒体の本は珍しい。

弥生は大戦前の書籍と自らのファイルを数十冊紙媒体で持っている、という現在では数少ない人間だったが、それ が文庫ともなればさらに貴重だ。

紙は既に変色しかけていて、数十年は前のものだということをI−ブレインは告げている。

タイトルすら擦り切れて読めないその本をフィアはそっと本棚から抜き出す。


それが、全ての始まりだった。










『夢想唄』 

本の虫・前編













ぱらり。

自室に戻ったフィアは、ベッドに腰掛けて古ぼけた本を開いた。

医学書と比べて小さな、そして少しだけ装丁が鮮やかな本。

最初は白かったであろう紙はすべからく黄色くくすみ、その本が年代物であることを誇張している。

タイトル。

目次。

そしてプロローグ。

本としての内容は全く持ってありきたりなもの。

奇をてらった特殊な文体でもなければ、話の内容もまた才覚を感じさせるものでもない。

ジャンルを言うとなればミステリー。

主人公が友人たちと出かけた旅行先で起きた人間消失事件を解決する物語であり、犯人は主人公の親友であった。

犯行動機は犬も食わぬ色恋沙汰のもつれより。

主人公は一人また一人と消えてゆく陸の孤島の旅館の中、恋人と手を取り合って必死の調査を進め、そしてついに は犯人を突き止めるのだった。

有体に言ってしまえば、あまりにも使い古された手法である。

王道と呼ぶにも最早陳腐。

本来ならば凡百の一作として埋もれていくその本であったが、フィアは食い入るようにページをめくっていく。

視線を一切動かさず、真剣な眼差しで本に目を落とすその様子は、新しいおもちゃを与えられた子供のよう。

時折わぁとか、はぁとか感嘆のため息すら漏れている。

没頭、という言葉は、まさに今のフィアのためにあると言っても過言ではないだろう。



そして1時間後。



ページをめくる腕と感嘆の息を漏らす口以外、全ての動きを静止させていたフィアは本を閉じ、満悦の息を吐い た。

「……面白かったです…………」

まだ興奮冷めやらぬという目つきで呟くフィア。

「……続きとか、あるんでしょうか」

どう読んでも一冊完結の物語なのだが、”物語”というものに初めて出会うフィアにそんなことが読み取れるわけ も無し。

しばらく名残惜しげにかすれた表紙を眺めていたフィアは、期待に満ち溢れた顔で立ち上がり、駆け足で部屋を出 て行った。




―――つまるところ。彼女は初めて”娯楽”というものに出会ったのだ。














          *     *     *










「フィアの様子がおかしい?」

「そうなのよ。最近自分の部屋に閉じこもりっぱなしでねぇ。かといってちゃんとご飯も食べるしお使いも手伝い もしてくれるし……」

昼下がり。

とある依頼で三日ほど町を空けていた錬は、帰ってくるなり弥生に捕まった。

なんでもフィアが二日ほど前から自分の部屋にこもりきりで何かをやっているらしい。

「外に出なくなったってこと、じゃないよね?」

「お使いや手伝いとかはちゃんとしてくれてるのよ。でもそれ以外の時間はずっと部屋にこもりきり」

「うーん……」

フィアの様子がおかしい、と聞かされて驚いた錬だが、事情を聞く限りさほど問題のある状況ではなさそうだ。

それは弥生も理解しているようで、心配しているというよりは戸惑っている、といった感が強い。

「何かのイベントの準備してるとか」

「誰の? 私も錬ちゃんの誕生日も時期ハズレよ」

「あー、じゃぁ寝てるだけとか」

「そんなわけないでしょ。フィアは夜更かししない子よ」

「変な趣味に目覚めた、とか」

「具体的に言って御覧なさい錬ちゃん?」

「―――全力でごめんなさい。えーっと、じゃぁ反抗期……は」

「流石に無いわよ」

「僕もそう思う。んー……変なものを食べた、とか」

「錬ちゃんじゃあるまいし」

「そうだよねぇ―――って今サラリと酷いことを!?」

「錬ちゃんじゃあるまいし」

「二回言われたッ!?」

……なんか最近、弥生さんが冷たい気がする……。

しょぼくれる錬をそっちのけで、弥生は腕組みをしてどうしたものかしらと考えている。

そこへ、



「―――真ッ昼間から何路上で漫才してんだお前ら」



頭上から声がかかった。

……頭上?

ぎぎ、と上を振り仰いで見れば、そこには寝っ転がる姿勢でぷかぷか空中浮遊しているウィズダムの姿があった。

「…………なんだろ。頭痛くなってきた」

「あら、ウィズダム君。こんにちは」

そして弥生さん。普通に応対するのもどうかと思うんだけど。

思わず額に手を当てる錬。

ウィズダムは面白がるようにこちらの頭上をくるりと一周してから、優雅に地面に降り立った。

「何してたのアンタ」

半目で問う錬。

対してウィズダムはニヤリと笑って手を突き出した。

握られていたものは、

「本?」

「それも紙ね。珍しいわ」

「優雅に読書中だったんだよ俺ァ」

…………空中浮遊しながら?

つくづくこの狂人のやることなすことは意味が分からない。

というかコイツ自体が先ず分からない。

「何で家で読まないのさ?」

「ウマシカめ」

「え? 今なんて?」

「馬鹿かお前。俺は一つのところにジッとしてるのは嫌いなんだよ」

「……ソウデスカ」

聞いた僕がウマシカだった。じゃなくて馬鹿だった。

気を取り直してとりあえず話題を逸らす。

「それ、なんて本?」

「あ? かなり古いぜ。本じゃなくて詩集だ。河合酔名『ゆずり葉の詩』。2世紀ばかし前の詩人の作品だな」

ちょっと驚いた。

「ウィズダム、詩集なんて読むんだ」

てっきりこの男は先ず読書とか落ち着いたイメージのあるものはしないと思っていた。

……あ、でも結構博識なところあるから、頷けるかも。

曲がりなりにも賢者ウィズダムを名乗っているのだ。相応の知識は仕入れているのだろう。

「かは、教養は大事だぜ」

「なんでだろう。アンタが言うとすごく切ない」

「坊主に言われたかねぇな。んで? お前らは何やってたんだ?」

そう言ってウィズダムは右の眉を上げた。

「それがねぇ。フィアの様子が最近おかしいのよ」

「なんか、部屋にこもりきりなんだって」

「ほーん」

「……興味なさそうだね」

というか完全にアウト・オブ・眼中。

気だるげに相槌を打っただけでウィズダムは大きな欠伸をかましている。

「っつかよ。本人に聞いてみればいいじゃねえか。ほれ、行くぞ」

「え? ちょ、ちょっと待っ――――――」



(大規模情報制御を感知)



抵抗する暇が有らばこそ。

ウィズダムが指を鳴らすと同時に周囲空間の情報定義が書き換えられていく。

上書きされるデータは空間曲率。

展開される世界は『七聖界』セブンスヘヴンが第二位、『蠢く世界』ディストートレギオン

空間を歪め、点と点を次々に繋げていくことで擬似的な空間転移が完成する。

そしてまばたき3つほどの刹那。

錬は弥生診療所の前に立っていた。

「いきなりすぎだよ! ってあれ、弥生さんいない!?」

「んあ? 置いてきちまったか。しまったな。まあいいか。まあいいな。まあいいぜ。オッケー」

「いつもいつも思うけどウィズダム凄い前向きだよね」

「もっと褒めてくれていいぜ」

「……皮肉すらも通じないのね」

マトモに相手をするだけ無駄か。

錬は肩を落としながら、玄関の扉に手をかける。

「まぁ、とりあえず来ちゃったわけだし。フィアの様子見ておかないと」

僕が帰ってきたことも伝えないとね。

「ん。年頃の女の部屋に入りに行け」

「ぶふっ――――――!?」

思わず吹き出してしまった。

ノブにかかった手は一瞬のうちに湧き出た気持ちの悪い汗のせいで滑り、錬はそのまま硬直した。

「あんだよ。間違っちゃねぇだろ。ツくもんツいてんだろ坊主?」

「そ、そそそれにしたってい、言い方ってもんがあるでしょ!?」

「ういういしーねぇご馳走様。―――ただし激マズ」

「アンタもう帰れッ!」

思わず錬が怒鳴りつけたその時、診療所のドアががちゃりと開いた。



「……錬さん? ウィズダムさんも、何やってるんですか?」



ひょっこりと顔を出したのは、今まさに様子を確認しようとしていたフィアの姿。

金の髪にエメラルドグリーンの大きな瞳。

別段普段と変わった様子も見られない。

「依頼、終わったんですね。おつかれさまですっ」

「あ、うん、ありがと」

笑顔で近寄られて逆に戸惑う錬。

……別に、いつもと変わらないよなぁ。

横のウィズダムにちらりと目線を送ると、肩をすくめられた。

と、

「あれ、それなに?」

近寄られるまで気づかなかったが、フィアの手に長方形の何かが握られていた。

茶色の紙のカバーがかけられたそれは、今ではもう珍しい――――――

「本?」

紙媒体の本とはまた貴重な。

久川老のところからでも借りてきたのだろうか。

それより、

「フィア。本読んでたの?」

「はい! そうなんですっ!」

……うぉ?

何だこの反応。

本、という単語を出した途端、フィアのまるいエメラルドグリーンの瞳がさらに大きくまるくなり、輝きだした。

「物語ってすごいんですね錬さんっ! ミステリーがファンタジーで主人公さんがもう起承転結なんですっ!」

「ちょ、ちょちょちょっと待って落ち着いて!?」

「……おい小僧。この嬢ちゃんこんなキャラだったか?」

目をキラキラ輝かせて詰め寄ってくるフィア。

錬は思わず、ウィズダムですら眉を顰めて一歩後退した。

「まぁなんだ、錬。これで弥生の疑問は解けたんじゃねぇか?」

「……そだね。まさかこんなことだとは夢にも思わなかったけど」

答えは簡単。

フィアは”読書”という行為にのめりこんでしまったのだ。

おもちゃを与えられた子供のように無邪気に目を輝かせ、”物語”の素晴らしさを語るフィアを前に、錬と ウィズダムは微妙な表情で天を仰いだ。







あとがき

夢想唄の第二章、「本の虫・前編」をお届けします。

そろそろこのだらだらした空気にも慣れてきていただけるとありがたい。

初めて本を読んだときのことを、覚えている人はいますかね?

俺はなんでも、母親が胎教から物心つくまで一日3冊を読み聞かせてくれていたみたいです。

物心ついてから(3歳頃)からは毎日一冊は最低本を読んでいるので、今に至るまで人生の毎日、俺は本を読んでいたということになります。

大学が死ぬほど忙しくても、一日一冊は欠かさない。(今は朝の空き時間にしか読めてませんが)

その魔的なまでの活字の魅力にフィアをのめりこませてみました

教養でもあり、勉学でもあり、娯楽でもあり、おおよそ全てのものを含むものが読書であるのでしょう。

今回出てきた、河合酔名『ゆずり葉の詩』は俺の中に強く焼きついている100近い作品の中の一つです。

心に残った一冊を、思い浮かべながら後編へどうぞ。



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2008年 7月3日 レクイエム