展示室

■■七祈様■■

It`s a small perfect world

　初めての目覚めのことは、もうあまり覚えていない。
「――君は７番目だ」
　何の抑揚も無い無機物の名前を呼ぶような声で、一言、そう告げられた。ただそれだけ。それだけの記憶。
　与えられた名前も、ただ機械的に振り分けられたもの。
『７番目の千里眼【クレアヴォヤンス・ナンバー７】』
　与えられた方の記憶には、その意味を、その理由を、その力を、理解させるだけのものが用意されていた。
　人工培養の身体。植え付けられた記憶と真っ白な記憶。その記憶達を抱えるちっぽけな脳みそがひとつ。そこに――
　――Ｉ・ブレイン。
　気の遠くなるほどの乱数処理の向こう、万分の一の可能性の果てに生まれた力が、『私』を生み、生かし、生きながらえさせた。
　
　――けれど、そのときの『私』は、決して『生きて』はいなかったのだ。

　初めて自分が「生きている」と感じられたのはいつだったろうか。
　そのときのことは、よく覚えている。同じ『初めて』のことなのに、よく覚えているのだ。
　それは二年前のあの日。研究員の案内で訪れたファクトリー実験室Ｃ棟・特別医務室でのこと。
　――最初に会ったときは人形みたいな子だな、と思った。
　ベッドに身を起こす、生まれてきたばかりの銀髪の少年。自分と同じようにして、『生まれた』存在。
『３３番目』
　それは私の『弟』だった。
　その弟に、もう一度会ったとき、私は出会った。
　何かに怯え震える彼の肩を腕に抱きとめたとき。「大丈夫よ」と、そう囁いて彼の背を撫でてあげたとき。――そして
　ほんの僅かな笑みを浮かべ、彼が「ありがとう」と、言ってくれたとき。
　――私は出会ったのだ。

▽

「――おいこら！　聞いとんのか？」
　出し抜けに響いてきた声により、唐突に思考は中断される。遠い日に馳せた思いは、そのセピアを減じ、徐々に明確な輪郭を持って彼女を現実へと引き戻した。
「………………聞こえてるわよ」
「なんや？　えらいボーっとしてよったやん。……まあええわ。……あ！　あと、話すときはこっち向いて喋らんかい、自分。愛想悪いで」
「あたしにそんな必要ないの、知ってるでしょ？　あんた」
　――そう、自分には必要ないことなのだ。
　『千里眼【クレアヴォヤンス】』。それが彼女――クレアの能力の名前。一所に留まりながらにして世界のすべてを見通す力。
　その力の代償として失った視力のおかげで、彼女は今、朱色の眼帯をその両眼に覆っている。黒の布地に朱色の刺繍は大きな『一つ目』をかたどり、その力に相応しい威容を誇っている。
　だから、誰かと会話をするときに、目を合わせるということは必然ではない。彼女の場合は。瞳なき視線により、相手から目線をそらされてしまうゆえだ。
　けれど今度の相手ばかりは、そんなことはお構いなしであった。
　短く刈り込んだ白銀色の髪。小さめのレンズをしたサングラスの奥には、ふてぶてしい笑みをたたえた眼光が二つ、クレアへと向かっている。
　その相手――イルは、「あー、こらアカンなぁ」と苦笑まじりに呟き、その視線をクレアからはずして、もう一方の人物へと注いだ。
「なあ、おまえはどう思うんや。……やっぱ、人と人とのコミュニケーションってヤツは、向きおうてすんのが一番やと思わへんか？」
　突然に水を向けられる形となったもう一人の人物――この空間に今現在をもって滞在する三人の人物のうち、最後の一人である――その少年は目に見えてうろたえた。
　イルよりも更に色素の薄い銀色の髪をしたその少年が、「え、と……僕は……」と言葉を濁しているところへ、
「ちょっと、イルっ！！　そうやってディーをダシに使わないでよ！」
　そっぽを向いていた姿勢を猛然とした勢いで反転し、イルへと詰め寄るクレア。
　いきなり目の前に姿を現した一つ目を、しかしイルは一笑に付すだけに留め、一方で少年へと言を飛ばす。
「おーおー。やっぱし、このこーまんちきなお姉さんを動かすんは、おまえをもってくんのが一番やな、ディー」
「――あ、その……え……と、……うん」
「イルっ！　あんたってヤツはホントに――。で、ディーもそこで頷いたりしないのっ！！」
「あ、……ご、ごめん。クレア」
　眼帯の向こうからでも分かるほどに、すさまじい形相でいきり立つクレア……
　……なのであるが、萎縮する一方のディーに対し、イルは平然としたまま、
「おー怖い怖い。……なあ、ディー。こうなると俺らの『お姉さん』は、お姉さんやのうて『オニババ』にしか見えへんなぁ」
「――イルっっ！！」

　こうしてクレアヴォヤンス№７は、二人の『弟』を前に、お説教モードへと突入するのであった。

▽

　それは偶然に偶然がかさなった出会いだった。
　シティ・マサチューセッツのファクトリーで生まれた三人の姉弟――クレアとイルとディー――が、ここメルボルンにて一堂に会したのだ。
　そもそも、イルこと『第１７の幻影【イリュージョン・ナンバー１７】』は、もう二年以上も前にマサチューセッツからシティ・モスクワへと貸与された状態にあった。いかに、マサチューセッツとモスクワの間に暗黙の協力関係が築かれていようと、それはファクトリーを通した研究室レベルの話であって、決して全面的な互助関係にあるというわけではない。たとえ生まれを同じくした姉弟であっても、ただそれだけの理由で手を取り合うことなどできようはずもない。
　特に今回のような、互いに最高機密にある軍事目的の作戦行動においてならばなおさらだ。
　それなのに、この三人の姉弟はその作戦行動を共にすることとなった。

　姉弟が同じ地へ足を運んだ理由は、一つずつ、両シティ双方に存在した。
　クレアとディーは、マサチューセッツでファクトリー関連のあらゆる情報を奪い逃走した、『光使い』の母子の追跡任務を負い、メルボルンへ。
　イルは、モスクワで『賢人会議』を名乗るものにより奪われた、マザーコア候補・３０名の魔法士の奪還任務を負い、メルボルンへ。
　そして、任務協力の要請は、イル個人の名義でクレアたちへと送り届けられた。
　その発端は、クレアたちの追いかける『光使い』が、『賢人会議』と協力関係にあったことが判明したことにある。『光使い』がメルボルンへと逃走したことで、それまでモスクワから脱出した『賢人会議』の足取りのアタリに確信がもてないでいたイルに、一つの光明がさしこんだのだ。
　――『賢人会議』の本拠はメルボルンに在る。
　マザーシステムの耐用限界を目前に向かえたモスクワのため、作戦に万全を期すべく、イルは二人の姉弟へとコンタクトを取ったのだ。
　しかし、ここで一つ問題が起きた。
　イルから協力の要請を受けたクレアが、それに難色を示したのである。
　
　『第33の二重【デュアルナンバー３３】』――ディーは、もう一人の兄弟であるイルについて、以前に姉のクレアから聞いたことがあった。
　――最低なヤツよ。
　そのたった一言で切り捨てられた自分の兄。その兄が、とんでもない手段を用いてマサチューセッツの兵士を何人も死に至らしめたことを知ったディーは、それ以上もう自分の兄について思いをめぐらせることを止めたのだった。
　クレアはイルを嫌っている。それも憎悪と恐怖が入り混じった感情で。
　だから、ディーはクレアの難色に対して、さして疑問をはさむことはなかった。
　なかったのだが……

「………………な～んか、おかしいのよね」
「おかしい？？」
　メルボルンにて、半ば接収するような形で置いた拠点に、おそろいのファクトリーの制服に身を通したクレアとディーの姿はあった。
　他の工作員は出払っている二人だけの室内。眼帯越しに通信素子を覗き込み、呟かれたクレアの言葉にディーは尋ねた。
「おかしいって……それ、例の『幻影№１７』からの通信文だよね？」
「ん。そうなんだけど……。なんかさ、文体が変というか……ただモスクワ訛りがひどいだけなのか。……とにかくアイツらしくない内容の要請文書なのよ」
　ほら、とクレアはディーに向かって通信素子を放り投げてよこす。
「わわっと！　……あぶないなぁ……」
「あはは。ディーってば騎士のくせに鈍臭いんだっ♪」
　面白おかしく笑う一つ目に、もう、と少しふてくされつつ、ディーは受け取った素子に映る画面へと目を走らせる。それから数十秒後――
「………………なんか、その……イメージと違うね、これ」
「そーなのよ。分かる？　……んー。これは、どうしよっかな～」
　二人は互いに向き合って、あーでもないこーでもないと送られてきた文書について話し合う。
「――やっぱり、一度でも会ってみたほうがいいと、思う、よ」
「ん～。あー、やっぱそうなるかー。……でもなあ。あたし、アイツに会いたくないのよね」
「――姉さん」
　ディーが少し困ったような顔をして、クレアをそう呼んだ。
　その効果は覿面だった。途端に、クレアの顔がその鮮やかなブルネットよりも真っ赤になる。クレアは、弟にそう呼ばれるのが最も効くのだ。
「あー！　もうっ。分かったわよ。……会う。会って確かめればいいんでしょ！　……ま、あたしだって気になることは気になるわけだしね」
　真っ赤になる顔を誤魔化すように、クレアは眼帯をはずした。黒と朱の向こうから彼女の金色の瞳が姿を現す。
　彼女はその眼帯を滅多にはずさない。はずす時があるとすれば、今のように、ディーと二人でいるときくらいだ。
　クレアの光を映さない瞳は、たとえ光なくともキラキラと輝いているようだった。
　
　――こうして、姉弟三人が再会する舞台は用意されたのであった。
　
▽

「あー、もうっ！　……かなんなぁ、実際。あのねーさんにはまいるわ、まったく」
　ぼやくイルの声が、モスクワ特殊部隊駐屯所の通路内に響く。
　並んで歩くのはディーだ。彼は「どうして僕まで……」と、こちらもまた独り言のようにぼやいている。
　二人はあれから、それまでに予定していた作戦会議を2時間も遅らせる形でクレアのお説教を受けたのだ。もっとも、作戦の立案・作成・総指揮自体はクレアが中心になって行うことになっているので、二人には文句が言えない。言えるとすれば、理不尽なお説教自体への文句くらいだろう。
「しっかし、なあ、ディー。……あのねーさん――クレアはいっつもああなんか？」
　頭をかきむしりながら半目でディーを見るイル。その視線にディーは少しびくっと身体を震わせて、
「……えっと、……はい。……でもいつもってわけではなくて、ときどき……」
　しどろもどろで答えるディーに、あーっもうっ、とさらに強く頭を抑えるイル。
「なんやなんや、おまえは？！　……俺ら兄弟やんか。なにそないバカ丁寧な言葉つこうてるん、自分。遠慮せんと、あのねーさんに言うてるみたいに会話できへんのか？」
「あ………………す、すいません」
　だーっ、と叫び、額に手を当てイルは天を仰ぐ。
　そのまま、手をはずし頭を振り、再びディーに向き直る。
「……ま、いきなりじゃ仕方あらへんのかもしれんわな。――なあ、ディー？」
「は、はいっ？」
「おまえ………………、クレアから俺のこと、どないゆうんに聞いてるん？」
「！！　………………」
　今度こそディーは絶句してしまう。
「……その様子やと。……、ま、どうせロクなもんじゃないようやな。……いや、いいんや。ホンマにロクでもないやつやったからなぁ、俺」
「……イル……」
　そこでディーは見た。少しだけ寂しそうな笑みを、目の前の少年が浮かべていたのを。
　だがそれは一瞬のこと。彼の笑みはすぐに朗らかなものへと変質した。
　そんな笑みでもって、イルはちょうど通りがかった休憩室へのドアをあごで示す。
「よっしゃ。ここはいっちょ互いに昔話でもしょーか。……こないな機会、もうあらへんかもしれんからな」
　
▽

　二人がラウンジへと入っていくのを、クレアは通路の死角部分から眺めていた。彼女は二人を追ってきていたのだ。無論、イルがディーに対して何かよからぬことをしでかそうとしたときのためだ。
（………………といっても、ね……）
　実際問題、もしも本当にイルがディーにそんな行動にでたのだとしたら、自分にできることなど極僅かしかないことは分かっている。
　――『存在確率情報の操作』。あの規格外のバケモノ相手にできることなど、せいぜい息せき切っての逃亡くらいしか選択肢がないのだ。
　本当は分かっている。
　イルが――自分の知る『幻影№１７』は、もうどこにもいないのではないのか、ということ。
　――だから知りたかった。
（なにが、……アイツを変えたんだろ……）
　心の中で呟く疑問。
　その答えは、――いまや目前の位置にまで来た、扉の向こうで交されていた。

▽

「――って。だから……、幻影№１７はもっと暗くて冷たい人だと……」
「あー、クレアのやつ、んなこと言うてたんか？」
　ラウンジの壁際、簡素な立てかけ方のベンチに腰掛け、イルは困ったように頭をかいた。そのもう片方の手には、ラウンジにひっそりと添えつけられていた簡易式蒸留器により注いできた紅茶のカップが握られている。
「まあ、確かにマサチューセッツにおった頃の俺はガキやったし、今よりちょっと根暗で根性悪やったけど、そんなことこいつに吹き込まんでも……」
　とほほ、と情けないため息をつき、「まー、……っつーても、しゃーないことか」と続ける。
　並んでベンチに腰掛けるディーは小さく笑い、手にした紅茶のカップに口を運び、
「……おいしい……」
　その様子に、イルはにんまり笑って、
「どや？　俺の持ち込んできたいちごジャムの味は。合成モンやない紛れもないホンマモンやから味の保障は確実や」
　うんうん、と何度も頷きを繰り返し、……やがて「――さて……」と少しだけ神妙な面持ちになりイルはディーに視線を向ける。
「――今度は俺の話す番やな、何か聞きたいこと、あるんやろ？」
「………………はい」
　そして、ディーの口から言葉を紡ぎだされる。今まで、彼の中でずっとわだかまっていた疑問と共に。
「あなたが、教えられていたイメージとまったくかけ離れている、って感じはここにきてからさらに強くなりました。……あの、ここにくる途中にモスクワの兵士の方に聞いてみたんです。貴方のことを」
「ほうほう。事前調査かい。……ああ、悪いこっちゃあらへんで全然。そこは気にせんとき」
　片手をひらひら振って、先を促すイル。
　いったん言葉を止めたディーは、その目に今までに浮かぶことのなかった強い光を宿らせた。
「……モスクワの方々は皆、あなたを心から信頼していた。そして、それはあなたが命がけでモスクワの人たちを守っているからだって、……そう聞きました」
　こめかみに汗が伝い、ディーの喉は小さく音を立てた。
「――何故、ですか？」
　尋ねるディーの脳裏には、彼が過去に見てきた光景が映し出されていた。それはファクトリーの……毎日逃げるようにして訪れていた、日々を使い捨てられるためだけに生きる兄弟だちのいる場所。
「あなたがいくらがんばったからって、喜ぶのはシティの連中だけでしょ？　モスクワから盗まれたサンプルがファクトリーのコアなら、僕にとってもあなたにとっても仲間の……兄弟のはずです。どんな理由でもあそこから逃げられたのなら、そのまま生き延びて欲しいとは思わないのですか？」
「生き延びられるんやったらそれが一番にきまっとるけどな」イルは頭をかき「けど、そのためにモスクワの市民一千万人見殺しにするわけにもいかんやろ」
「それは、そうかもしれないですけど……」
　そこでディーは口ごもってしまった。だが、その口は閉じても、その目はまだ何かを言いたげであった。ただ、その言葉が見つからないだけで。
　そんな弟の姿を、何か遠いものを見つめる目におさめ、ぽつり、イルは言った。
「――そっか。おまえはまだ出会うておらへんのやな……」
「？　……出会う？？　誰に……」
　ここで、イルの話す順番がまわってきた。
「……俺もおまえと同じように思っとった頃があった。あの頃はシティの連中が、俺ら兄弟の命啜ってのうのうと生きてるだけのやつらが憎くて仕方なかったわ。そのために無い知恵絞って、何とかあいつらを一人でも多く殺してやろう思っとった、毎日毎朝毎晩、いつも、いつも、いつも、や」
　「――だがな」とイルは続ける。
「モスクワに来たとき、俺は出会うたんや。……なんか、最初はわけ分からんヤツやったわ。教会のシスターなくせに『神さんはおらへん』なんつってたり。そうかと思えば、『けど、神さんは信じとる』っつってたり。とにかくへんてこな…………シティの『人間』やった」
「人間……？？」
　ディーが思わず呟きを口にする。
「そいつはな、知ってたんや。……俺ら魔法士が、マザーコアになってシティの人間生かしてるうてこと。俺らが生贄になっとるから、シティの人間は生きていけるんやってこと。全部、知ってたんや。知ってて、そいつな――」
　不意に、イルが顔を上げディーの方を向く。そこにあったのは、――笑顔。
「――泣いとった」
　彼の笑顔は、そんなことをいう彼自身が泣き出してしまいそうな、笑顔だった。
「俺は知らへんかった。人間が………………俺らのために泣いてくれる人間がおるってこと、知らへんかった。俺らのために命がけで泣いてくれて、『ごめんなさい』言うてくれる人間が、そこにおったんや」
「………………そんな……」
　言葉を失うディーから目をはずし、イルはまっすぐに前を見詰め、
「だから、俺はそんとき決めたんや。俺はこれから先、何がおうてもシティのために戦うってな。――それはシティに住む人間のためやない。シティに住む、俺らのために泣いてくれる人間のためや。シティ・モスクワ一千万の市民の中には、必ず、そんな人間がたった一人でもおるんやってこと、俺はもう知っとる。だから――」
　再び、イルの顔はディーへと向かう。
「だから――、戦える」
　
　気づけば、ディーの顔はびしょびしょになって濡れていた。
　そんな顔を必死になってぬぐおうとしながら、ディーは言葉を探す。
「――イル。あなたは……」
「……あー……もう、男が泣くなやあ、みっともないなあ……」
　イルは苦笑いをしつつも、両手でポケットをがさごそあさり、む、と顔をしかめる。するとおもむろに、ジャケットの袖を手のひらでつかみ、泣き濡れたディーの顔をごしごしと拭ってやる。
「……おいおい。クレアのやつの教育方針は、泣き虫を育てる方向やったんかぁ？」
　からかいの言葉を向けるイルに、ディーは言葉もない。
　そして、その言葉はディーにだけ向けられたものではなかった。
　ごとり
　部屋の出口。扉の向こうで何かが立てた音を、耳ざとくイルは聞いていた。
　音は次第に遠ざかっていき、やがてここからではまるで聞こえなくなった。
「立ち聞きなんかせえへんでも、素直に入ってくればよかったんになぁ……」
　「――まあ、そら無理か」と、イルは涙を止めないディーの頭を撫でながら、扉の向こうをじっと眺めていた。

▽

　かんかんかん
　通路内には駆ける足音が大きく反響している。
　おそらく、……いや十中八九、イルは気づいたはずだ。でなければあんな言葉をかけてきはしないだろう。
　――あたし、どうして……
　クレアはこみ上げてくるものを抑えるのに必死だった。だから逃げ出した。
　本当なら、あの場面。自分は、話の途中からでも部屋に入っていき、泣き出したディーをあやしつつ、イルを怒鳴るべきだったのだ。
　――そうするはずだったのだ。だが……
「――イル。あんたってやつは……なんて………………」
　そのあとの言葉が続かない。口にしようとしたところで、何かが落ちてくるのを感じたからだ。
　涙。
　手ずから眼帯をはずす。それはぐしょぐしょに濡れていて、黒の地をより黒く染め上げていた。
　はずした眼帯を両目にあてて、クレアはただ、立ち尽くす。
　光さえ映すことのない金色の瞳が、されどその流れ出す雫に光を映し、輝き濡れる。
　……そう。本当はもう、分かっていた。

　――なんて……、強く、なったのだろう――

▽

「――というわけで、『賢人会議』の本拠はここ、第６階層以下最深部・座標軸α２２８・β６２・ｃ１９２地点にある隔壁の向こうよ。ここに至るまでの第６階層連絡路にはもう限定経路を設定してあるから、あとは突入部隊の配置を大まかに決めておくだけね」
　よどみない口調で、クレアは作戦内容を皆に伝えていく。
　ここ、モスクワ自治軍陸戦部隊作戦指令本部には、今現在もてる戦力のすべてが結集され、作戦決行に備えられていた。
「――メルボルン各階層への通達は秘密裏に行ってあるわ。もっとも、第１階層他、４階層の一部の部隊はこちらには恭順しないということなので、作戦処理は迅速に。なるべく街への被害が出ないよう行う必要があるわね。あとは――」
　やがて作戦内容の系統分担が終わり、各部隊の代表たちが己の持ち場に戻っていき、作戦司令室にはクレアたち姉弟だけが残った。
「………………それにしても……便利な力やな、『千里眼』ゆうんは」
　感心した口調のイル。
「ふん。『賢人会議』だろうがなんだろうが、全然たいしたことないわよ。――この地球上で、あたしの『千里眼』に捕捉できない場所なんてないわ」
　イルからもたらされた情報を元に、『賢人会議』の本拠を割り出した力――『千里眼』。作戦会議までの時間に、クレアはマサチューセッツより移動を共にした雲上航行艦・『ＦＡ－３０７』にて、その力を遺憾なく発揮させた。
　『ＦＡー３０７』はその後、モスクワの航空母艦と共にメルボルン上空にオートで待機させてある。万が一、『賢人会議』らを逃がしてしまった場合に備えてのことだ。
　おっしゃ、という掛け声と共に、イルが自分の両手を打ち鳴らす。
「うんうん。まあ、俺ら３人が揃うとるんや。向かうところ敵なしゆーところか。なあ？　ディー、クレア」
　陽気な呼びかけに、ディーが笑みを持って返す。その笑みは、いつもの力のない笑みではなかった。
　そして――
「……そうね。『賢人会議』にどんな戦力が存在しようと、――あたしたちの敵じゃないわ」
　クレアの何気ない言葉に、しかし、イルは「お？」と、少しだけ目を見開いた。
「？　なによ。……あたし、なんか変なこと言った？」
「……んー。まあ、そないなことはあらへんが……」
　意味ありげにイルは言葉を濁す。
　「？　変なやつ……」と、クレアはイルを訝りながらも視線を別のところへ移した。
　そこでは、なにやら浮かない顔をしたディーが佇んでいるのが見えた。
　ため息を一つ。クレアは、腰に両手を乗せ、「しょうがないなあ」と呟きながらディーへと歩み寄る。
「……ディー。……あの子たちのこと、まだ考えてるんでしょ……」
「！！　クレア……………………」
　口ごもりながらも、最後に「うん」と告げるディーにクレアは頭を抱える。
　そこへ、イルが割って入ってきた。
「なんやなんや？　……『あの子たち』って。なんか心配事でもあるんかいな？」
　クレアは、躊躇いながらも「作戦に関わることだから、仕方ないわね」と前置きし、イルへと事の次第を説明していく。
　それは、マサチューセッツで起きた事件。クレアとディーがはるばるメルボルンくんだりまで来ることになった元凶についてであった。

「――は～。……なるほどなぁ……。なら、その『光使い』母子がおまえらの捕獲目標【ターゲット】ってことかい」
　一通りの説明を受け、イルは呆けたような顔で二人を眺める。
「……セラは……あの子は、ただ自分のお母さんと一緒にいたいだけ。母親の……マリアさんも、ただ自分の娘と静かに暮らしたいだけ。ただそれだけなんです。……だから僕にはできなかった。あの日、マサチューセッツで、僕は逃げるあの子達を捕まえることができなかった……」
　淡々とディーは語る。だが、その瞳には、とても悲しい光が宿っていた。
「それに――僕は、絶対にあの子を捕まえるわけにはいかないんです……」
「絶対に？？　……どういうこっちゃ？」
　イルの問いに、ディーを引き継ぐ形でクレアが答える。
「……『セレスティ＝Ｅ＝クライン』……そのセラって子は、『光使い』の母親の子で、彼女自身も『光使い』なのよ――この意味、分かる？」
「は？　……そら、どういう……」
　そこでイルは気づいた。
「――はん。つまり、そのセラってお嬢ちゃんは、……自然発生した『光使い』ってわけなんやな」
　二人が静かに頷くのへ、「あ～あ。……こら、めんどいことになってんなぁ……」と、イルは嘆息する。
「なるほど……。そら、その子を軍に引渡しでもしたら、……どえらいことになるわな……」
　事態を理解したイルに、クレアが口を開く。
「……今のところ、その事実を知っているのは、本人達とディーとあたしだけよ。もちろん、彼女達を保護している『賢人会議』も、今頃は知っているんだろうけどね」
「しっかし、今回の作戦でその子ら掴まえたら………………まあ、自動的に軍に引き渡すことになって、……結果、その子の秘密はバレバレになってまう。そしたらその子は、この先ずっとファクトリーの中で――」
　ああ！　と頭をかきむしるイル。
　それを横目に、クレアはディーの肩をそっと抱く。
「ディー。これが最後だなんて言わない。あたしは何度だってあんたに言うんだからね。……あんたを処理工場送りになんてさせない。絶対によ。――だから」
「それでも！　……僕にはできないよ」
「いいから聞くのっ！　……今度の作戦、失敗したら本当にあんたは処理工場送りになっちゃうのよ。もうあたしにはこれ以上、それを止めることができない。………………あんたがあの子を助けたいように、あたしだってあんたを助けたいの……。お願い、分かって……」
「……クレア……。でも……」
　ディーが、なおもクレアに対し言葉をつなげようとするところへ、

「こらーっっ！！　おまえらっ！　いきなり二人だけの世界つくんなや！」
　
　それほど広くない室内いっぱいに、だしぬけに響くイルの声。
「おいこら、ディー！！　クレア！！　……ここにもう一人おるやろがっ！　おまえらが相談する相手！　ここに！」
「……え？」
　クレアとディー。二人の声がユニゾンしてイルへと向かう。
　その視線を真っ向から受け止め、イルは、どんと自分の胸を叩いて示す。
「俺にぜんぶ任せときっ！　――なぁに、老い先長くない『光使い』一人とその娘っ子一人逃がすくらい、俺がぜんぶ責任もってやったる。命かけて俺が逃がしたるわ！」
　呆然と、イルを見詰める二人。
「大丈夫や。心配あらへんわ。俺はモスクワの魔法士やからな。マサチューセッツのことなんやもう知らんわ。だから、それはなんとかなる」
　やがて、呆から解かれたクレアが言う。
「……イル、あんた……。でも、そんなことしたら、今度はあんたが……」
「んな小っさいことは気にせんとき。俺の頭いじくられるくらいで、ディーの処理工場送りがなくなるんなら、それが一番に決まっとるやろが」
　高らかに笑い声を上げた後、イルは、いまだ呆けて言葉もないディーの肩に手を置く。
「ディー。あきらめるんはな、皆が皆、あきらめてもうたときまであきらめるもんやないんや。皆があきらめるまでは、絶対にあきらめたらあかんのや。わかるな？」
「――イル………………僕は……」
　ようやく言葉を口にすることができたディー。その両の眼差しにはきらりと光り、零れ落ちるものがあった。それを見たイルは、「あー、また泣いとるんか、おまえ。ほんっと、なさけないなぁ」と、また以前と同じように袖口でそれを拭ってやる。
「クレアは、自分があきらめるギリギリのとこまでがんばった。だから俺も、自分にできるギリギリのところまでがんばっておまえを助けたる。それが俺らがおまえにできることやからな」
　ぽんぽん、とディーの肩を叩く。
　すると、ディーが、
「でも！　じゃあ、僕は……僕には何ができるんですか？　僕はまだ、何もしていないのに……このままじゃ……」
「だから………………『賢人会議』潰すんに、おまえの力、貸しとくれ」
「――っ！！」
　息を呑むディーとクレア。
　対し、イルは笑って、
「そういうことやろ、つまり。――あいつら潰せば、『光使い』に奪われた情報は戻ってくる。それさえ戻れば、後は『光使い』は病気で死んでもーたことにして、お嬢ちゃんの秘密を守っといて、その責任をすべて俺がひっかぶればええ。俺の方も、この作戦さえ上手いこといけば、大概のことはお咎めなしでなんとかなるはずや。………………それでめでたしめでたし。違うか？」
「――イル」

　もう三人の間に言葉はいらなかった。

▽

　作戦決行の時が来た。
　メルボルンの街に軍靴が響き渡る。
　シティ・モスクワ自治軍陸戦部隊三個師団、三千人の兵士達は、すでに部隊の展開を終えていた。
　先行してメルボルンに潜入していた第一級【カテゴリーＡ】魔法士２０名と工作員３００名は本体と合流。その指揮下に入り、最前線の突入部隊として配備された。彼らは、この戦いでおそらく牽制のために現れるだろう、黒衣の騎士・『黒沢祐一』を足止めする役割にある。
　その部隊よりもさらに前に行くために、ディーは最後の調整を整えているところだった。
　そこへ、
「いい？　ディー。あたしが全力でトレースをかけるから、とにかくあんたは先行して、『光使い』の捕捉にあたるのよ」
「うん。……なんとかやってみるよ」
　クレアの言葉に、ディーは笑顔で答える。そこには先刻までの躊躇いの色はどこにもない。
　――決意した騎士の顔がそこにあった。
　「――しっかりね」と、クレアは眼帯の向こうから微笑みかけ、その場から一歩下がる。彼女はこれから、『ＦＡ－３０７』にて各部隊への指揮進行を行うことになっている。再び、二人が顔をあわせるのは作戦終了後ということだ。
　下がった彼女の代わりに、進み出てくる影が一つ。――イルだ。
「ええか？　ディー。俺が『賢人会議』の相手しとる間に、首尾よく『光使い』に接触できたら、なにがなんでも説得するんや。うまーくこっちの話にのってくるようにな。………………それでもダメっちゅーときは、とにかくうまーく周りに被害がでんようにして、そいつらをメルボルンから自力で脱出させるんや。……その後のことは俺がなんとかしたるからな」
　ばんばん、と大きな音を立てて、イルがディーの肩を叩く。彼はこれから、単独で『賢人会議』と対決することになっている。『賢人会議』が最大でどのくらいの戦力を保持しているかはいまだ不明な点が多いが、それでもモスクワで彼が戦ったという黒装束の魔法士を相手にできる戦力は、部隊の中では彼しかいないからだ。
　『光使い』の件が片付き次第、ディーはイルに合流して『賢人会議』にあたることになっている。
　戦いはこれからだった。

　作戦開始時刻まであと数刻。
「じゃ。これから先は通信でね。――ディー。がんばんなさいよ！」
「おっしゃ。んなら俺はもう行くわ。――ディー。ま、あんま気負わんときや！」
　クレアもイルも、自分達の持ち場へ向かおうとする。
　ディーは、去り行く二人に向け、
「――兄さん！　姉さん！」
　その呼び声に、二人が振り向く。
「………………ありがとう」
　その一言を残し、ディーは手に持つ双子の騎士剣を構え、『自己領域』を展開する。
　一瞬の後、もはや彼の姿はその場のどこにも残っていなかった。

「――は～。こら破壊力抜群やなあ……。ええ顔するようになったやん、あいつ……」
「………………」
　その場に立ち尽くすイルとクレアの二人。もう『弟』の姿はどこにも見えないが、彼が最後に見せたその輝かんばかりの笑顔は、はっきりと焼きついていた。
「……さて、と。俺も行くか――」
「あ！　ちょっと待ちなさいよ、イル」
　再び歩き始めようとしたイルを、今度はクレアが呼び止める。
「ん？　なんや、クレア？　……いいかげん急がんとまずいで。用があんなら早――」
　そこでイルの言葉は止まる。
　彼の視線の先には、クレアの瞳があった。
　――彼女の、金色の瞳が。
「………………おまえ、その目……」
「………………」
　朱色の眼帯を丁寧にたたみながら、クレアは光を映さないその目でイルを見つめる。
　そして、小さく一言、
「――あんたも、がんばんなさいよね」
「………………ああ、まかしとき。どーんとな！」
　親指を立てた手を突き上げ、イルは満面の笑みでそれに答える。
　そして今度こそ、彼はクレアに背を向けて、メルボルン第６階層へと降りていった。
　残ったのはクレア一人。
「……よし。あたしも、がんばんなきゃね――」
　朱の眼帯を付け直し、けれどその上からでも分かる笑顔で、クレアは自分を待つ『ＦＡ－３０７』のもとへと駆け出していった。

▽

　――二年前のあの日からずっと、自分には、『弟』は一人だけだと思っていた。
　あの子さえいれば、他に何もいらないと、そう思っていた。
　
　けれど、それが間違っていたことに、気づいた。
　気づかせてくれたのは、もう一人の『弟』。
　それまでの自分は、あの子の何を見ていたというのだろう。
　生まれては死んでいく兄弟達。自分はあの子達に何をしてこれたというのだろう。新しく生まれてきた、自分と同じ命達に、私は――

　だから、決めた。

　私は――『千里眼№７』は、あの子達を見守る力になる、と。
　二人の弟と、これから生まれてくるだろう新しい兄弟達の。

　次に生まれてくる子は、弟だろうか？　それとも、妹だろうか？

　そう。
　それが私――クレアと呼ばれる、あの子達の『姉』にできること。

　――だから、私は生きていける。

　この光のない世界を、明日へ――

＜作者様コメント＞

前回がコメディタッチだったので、今回はシリアスにいかせて貰いました。
いかがだったでしょうか？
タイトルに持たせた意味から分かるように、
本作品はウィズブレ世界のもう一つの可能性から生まれた
「誰もが笑っていられる世界」
にたどりつく選択肢を想像して書いたものです。
ですので、本文中から推測できるように、この世界ではまだマリアもイリーナも生きています。

この話の後、ディーはセラとマリアに出会うわけですが……
そのお話は、また次の機会にでも……

＜作者様サイト＞

　―　ＬＮＳ　―　
http://www.geocities.jp/raharito/

◆とじる◆