砂上の奇跡 〜過去の清算と、その代償〜
それがどれほど低い可能性の元に生まれたのか統計で表すことは出来ないが、結果として、規格外の炎使いは誕生した。
尤も、晶にI-ブレインを埋め込む決断をするに至った理由は完全に払拭することは出来ず、いくつかの不安要素は残したままとなったが、それでも晶は、誰の補助も無く生きる能力も手に入れた。
晶が抱えていた障害のうち、精神年齢の未発達や知能障害は払拭することが出来たが、『外界の認識対象が総て同程度である』という点だけは完全には払拭できなかった。
分かり易く言うと、晶には自分以外のものに対して相対的な判断が出来ないのである。
例えば、あるところにAさんとBさんがいたとする。普通ならば、例えば凛々しい顔立ちの人がAさんで、柔らかな雰囲気を醸し出す表情をしているのがBさんである、といったことでその人を見分けることが出来る。それは別段外見だけでなく、例えば交流を持った際、闊達な人がAさんだとか、この料理が好きなのはBさんだとか、AさんもBさんも足は速くないだとか、とにかくいくらでも人を判断する対象がある。
だが、晶にはそういった『何かを比べる』という、他者を判断することが出来ない。だから、晶は殆ど他者とのコミュニケーションが出来ず、また当然ながら、計算や正誤判断の問題を理解することも出来なかった。
そんな晶を前にしたからこそ、ニーナは本来ならば憎んでも憎みきれないI-ブレインという存在を晶に植え付けることを決断したのである。もし、今が苦難の時代でなければそのままでも良かったのに、という悔やみの感情と共に。
I-ブレインがあれば、例えば数値で表すことの出来る対象の大小や優劣等はI-ブレインが判断してくれるし、晶も自分の延長の域を超えないI-ブレインの判断だけは判断することが出来る。その結果、代用ではあるものの晶もコミュニケーション能力を獲得することが出来、I-ブレインの判断を判断することで、間接的に世界において判断する能力を得ることが出来た。
この過酷な世界で、生き延びる可能性を持つことが出来た。
(脳内ノイズ増大。I-ブレイン稼働率72%に低下)
モスクワシティ内のあちこちに仕掛けられているノイズメイカーにより発生させられるノイズによって機能に不全を抱えながらも、しかし晶は苦痛をものともせずにI-ブレインを起動させる。
(対反作用制御開始。『コンチェルト』発動。推定倍率5倍で実行
『カプリッチオ』発動準備)
ただし、稼働率を全力の20%程度にして。
対魔法士組織とはよく言ったもので、『暁の使者』にとある厄介な装置が普及していることがその理由だった。
その装置というのが、連続しては使えないが、わずかな間だけならI-ブレインの機能を30%程度阻害するノイズを発生することが出来る、ポケットにすら収まるほど小型のノイズメイカーのことだ。
ノイズの発生する場所で魔法士能力を使う際に最も気をつけなければならないのは、限界ギリギリの能力を使っている最中に突然ノイズを発生させられることによってI-ブレインが強制停止したり、最悪意識を失ってしまうことだ。
その危険性を避ける最良の手段は、ノイズによって低下するであろう稼働率よりも低い演算効率で演算をすることだ。
結局は、算数の計算に過ぎない。100%で稼働させているときに突然40%効率が低下した場合、限界が60%であるのに対して100%の能力を使っているということになり、40%超過となってしまいI-ブレインの強制停止の危険が訪れる。だが、50%程度で稼動していた中で40%効率が低下した場合ならば、限界の60%まで10%の余力を残しているので、効率の低下によるダメージがまったく無いわけではないが、それでもそれほど危険な障害に見舞われることは無い、というわけだ。
そして、現在の稼働率の低下はおよそ30%で、ニーナが普段持ち歩く小型のノイズメイカーの数は晶が知っている限りでは3つだったので最高で90%、元々の30%の低下と合わせると100%以上のノイズを発生させることが可能な計算だ。それを加味して、無難なところでは10%、無茶を覚悟しても30%以上の演算は危険だった。
本来ならばただの一般人を相手にするのであれば10%の力でもそうそう問題はない。魔法士能力だけでなく、I-ブレインの把握・計算能力は戦闘において非常に有効な助けになるので、それだけでも魔法士と一般人とではアドバンテージが存在することになるためだ。
しかし、相手がニーナとなってくると話は別だった。そもそも、そんなアドバンテージを踏まえた上でも十分に魔法士と渡り合えるからこそ、対魔法士組織『暁の使者』のリーダーとしての立場を自他共に認められているのだから。
実際、晶は魔法士能力だけを抜いた戦いでニーナに勝てたことなど一度として無い。正直な気持ちを吐露するならば、ニーナが小型のノイズメイカーを使うことも計算に入れると、10%で互角、20%で多少こちらが有利か、といったところだった。
第一級の炎使い2〜3人分の能力を持つ晶の魔法士としての能力で、だ。
だから、危険を冒しつつも晶は20%の力を行使する。
身体運動だけを加速させて晶がニーナに肉薄する。その右手に、普段なら生活便利品としてぐらいしか使わない小型のナイフを右手に構えて、ニーナの胸元目掛けて突きつける――だが、あっさりと右に避けられ、そのついでとばかりにこちらの腹部目掛けて蹴りを放ってくる。
知覚速度の加速は出来ないが、それでも相対速度的に見て5倍の差がある以上、相手の格闘技など掠ることさえ無くても不思議ではない。しかしその常識を覆すかのように、ニーナの蹴りは回避行動を取った晶の右腕を蹴打し、ナイフを取り落とさせる。
「くっ!」
苦痛のうめきをもらしながら、しかしすぐさま晶は回避行動によって生じた慣性を運動量を操作することによって相殺し、晶の右腕を蹴り上げたニーナの足が地面へと戻らないうちに左の拳でニーナの首元を狙う――だが、いつの間に手にしていたのか、ニーナの左手に握られていた伸縮自在のスタンロッドが、不自然な体勢ながらも十分な勢いを持って振られる。
(『コンチェルト』終了、『ディヴェルティメント』発動。対象を固定)
瞬時の判断で、スーツの上着に演算をかけてこちらの頭部と、そこを目掛けて振られるスタンロッドとの間に挟む。そこにさらに演算を付加してスーツを絶縁体と化したところで、頭部に鈍い衝撃が走る。そしてそれと同時にこちらの左の拳も、狙いとは少しずれてニーナの右の肩へと打ち込まれる。
「――
!!」
痛烈な応酬の余韻も残さないままに、さらにニーナが蹴りを放った左足を地に付けると同時に右足を晶の腰へと向けて放つ――左腕で受け止めつつ、蹴りの軌道上へと身体を流すことで勢いを可能な限り殺して受け流す。そして、ニーナと距離を取りながらI-ブレインを起動させる。
(『カプリッチオ』発動)
瞬間、十数ほどの氷弾が生成される。20%の演算で、しかももう一つの演算と同時に行った中なので数は愚か加えられるであろう運動量もそう大したものには出来そうにないが、それでも一般人を相手にするには十分なはずだった。しかし――
(ノイズ検出。演算を一時中断)
突然発生したノイズによって氷弾に運動量を付加するための演算が中断させられ、晶の手を離れた氷弾は重力に引かれるままに地面に転がる。ニーナがノイズメイカーを発動させたためだ。
……まず一回。
その成り行きを冷静に見届けつつ、しかし、悠長に構える暇なく肉薄してきたニーナに対して迎撃の態勢を取る。
(『ディヴェルティメント』終了、『コンチェルト』発動。推定倍率5倍で実行
『カプリッチオ』発動準備)
まず放たれたのは、左手に握られたままのスタンロッドだ。高圧電流を流すことが可能なものであるため、素手で受けるわけにはいかない。すぐにズボンの裏側、ベルトに挟んであったナイフを右手に取り、そこに演算を加えて絶縁体とする。
その演算が終わるのと同時に、ナイフとロッドが打ち合わされる。次いで、鍔迫り合いすらないまま二人とも一歩だけ後ろに下がり、それぞれが蹴りを放つ――常識で考えれば、五倍速で動いている晶の方が圧倒的に有利なはずなのに、結果は互いが互いの蹴りを蹴りで返すという相打ちで終わった。ダメージも似たようなものだ。
だが、そこからの動きは晶の方に分があった。すぐに足を戻し、右手に握ったナイフをニーナ目掛けて放つ――スタンロッドを構えることで受け止められたが、そのロッド向けて蹴りを放ち、手より外させる。しかし――
……しまった!
スタンロッドを蹴った際に帰ってきた手応えは予想よりも小さい、むしろ既に手を離していたものを蹴った程度のものでしかなく、ニーナが硬く握っているところを強引に蹴り離そうと力を込めて蹴りを放った晶は、その慣性に体勢を奪われる。すぐさまI-ブレインを使って慣性を殺そうとしたが、言うまでも無くその状況はニーナの計算によって導かれたものであるのだから、その程度の足掻きなど既に遅かった。いつの間にか右手に逆手で握られていたナイフが晶の顔を目掛けて振り下ろされる頃にも、晶は身体を自由に動かせる程慣性から逃れていなかった。
……それなら!
(『ディヴェルティメント』発動)
その慣性に囚われたまま無理やり身体ごと動かし、ナイフの軌道を逃れる。完全に果たすことは出来ずナイフは右肩を掠めたが、何とか致命傷だけは逃れることが出来た。そこに安堵の息を吐きそうになるが、しかし、ニーナの計略はまだ尽きていなかった。
(ノイズ検出――)
……しまった!
ニーナの思惑に気付き、急いでI-ブレインの演算を減らそうとしたが、そのときには既に遅かった。その瞬間だけ、『コンチェルト』の演算と、全力で演算できないためすぐに発動できない『カプリッチオ』を発動するために行っていた演算に、慣性すら問題にならないぐらいの精度での『ディヴェルティメント』の演算が重なり、複数の能力を起動させているという無理も合わさって、結果として80%近い演算をしてしまっていた。
そこに、ニーナが残った2つのノイズメイカーを同時に発動させて、70%分のノイズが発生した。その結果――
(処理オーバー。I-ブレインの再起動には50秒の時間が必要)
激しい頭痛と共に加速を失い失速する中、ニーナの拳が晶の首のすぐ下に吸い込まれるようにして打ち込まれる。わずかに上から下への軌道を取っていたことからその一撃では後ろに吹き飛ばされることはなく、続いて放たれた蹴りを腹部に受けてようやく後ろへと倒れることを許された。
だがそこに寝転んでいるわけにもいかないのですぐに起き上がり、ニーナの攻撃に対して身構える――ことは叶わず、さらに肉薄して繰り出された蹴りを左腕で、次いで左拳を右腕で受け止める――が、その右腕を左手で取られ、気が付いたときには晶は、重い荷物を勢いを付けて放り投げるようにしてニーナの背後にある壁へと叩きつけられていた。
受身すら取れずに通路の壁へと叩きつけられ、そのまま体勢を立て直す暇も無く再開されたニーナによる連撃に対して、I-ブレインの機能が回復するまでの時間を待ちただただ防戦一方の姿勢を貫く。
反撃が出来ないわけではない。しようと思えば、結果の程はともかくとして何回か機会そのものはあった。しかし、ニーナと肉弾戦で戦って勝てる相手などそうはいないという事実を前に、下手な誘惑を捨てた。何しろ元が軍人、しかも特殊部隊の戦闘訓練を取り仕切っていたという、モスクワ軍が抱える最高の戦闘要員という肩書きを持っていたニーナに対して肉弾戦をしようと考えることなど愚か以外の何物でもないのだから。
その動きには一切の無駄が無く、しかも相手の攻撃を見切る動体視力も並外れたものを持っている。さらには、相手の動きからその後の3、4手先の行動までも高い確率で予想できてしまうほどの経験も積んでいる。そのためいくら晶が5倍の速度で対抗しようとしても、例えば時速300kmで走る車がこちらに向かってきていたとしても、その車が通る進路を10km先から確認できていたら避けることなど造作も無いのと同じで簡単に対処されてしまう。齢を重ねたことで最盛期の力を失っているとは言え、晶の戦闘技術では、たかだか5倍程度の加速を得られたところでは優位に立つことが出来ない。
だから、I-ブレインの力を失った晶に勝ち目など無く、I-ブレインの機能が回復するのを待つ以外に出来ることなど何も無かった。
しかし、だからといって圧倒的に不利かというとそうでもない。何しろ、ニーナは先ほどノイズメイカーを使い切ってしまったのだから、晶のI-ブレインの機能が回復したらその時は晶が圧倒的な優位に立つことを許してしまうことになる。
つまり、この50秒でニーナが晶を戦闘不能にまで追い込めなかったら晶の勝ちだ。
……けど、そんなことは母さんも分かっているはず……。
ならば、ここで全力を尽くしてくることは間違い無い。その晶の予測を知ってか知らずか、ニーナは戦闘機械にでもなったかのように容赦の無い攻めを続ける。
腹部を狙う拳を左拳で受け、蹴りを両手で防ぐ。何よりも優先するべきは、防御の構えすら解いてしまいかねない致命傷を避けることと、ニーナと距離を取らせないことだった。
戦艦すら持つ『暁の使者』が、まさか拳銃を保有していないなどということはありえない。現に晶は、暁の使者の何人かが拳銃どころでなく重火器で武装しているところを見た経験がある。
だから、ニーナも持っているはずだった。確かにニーナは拳銃をあまり使わないが、一挺二挺持っているのが常だ。
だが、それをニーナは抜かない。その理由は至極単純なもので、使う暇が無い、というものだ。
戦闘が始まった当初では晶も20%程度とは言え魔法士能力を使えていたため、拳銃が決定打になることはあまり無く、使わずにいた。そして晶のI-ブレインが処理オチしてからは、ニーナが拳銃を抜く暇を見出せない、というのが理由だ。正確には、晶が、ニーナが懐に手をやるようなことがあればどんなことをしてでも止めようと虎視眈々と狙っているため実行できない、というところか。
……いや、むしろ母さんは、ぼくがそうすることを知ってて、敢えてそれを利用しているんだろうな……。
そんなことを考えている間にも、連打は途切れることなく続く。ここまでの所要時間はおよそ5秒。
その後の5秒は比較的楽に乗り越えることができた。防御の手段も、受けるだけでなく、ある程度は捌くことも出来ていた。
崩れだしたのは次の10秒からだ。本当に人間の拳や足を受け止めているのかと思いたくなるほどの硬さと速さと衝撃に、受け止める腕や足の感覚が徐々に失せ始めた。
そうなると、次の5秒辺りから怪しくなってくる。受け止めている腕が本当に受け止めているのかを信じることが出来なくなり、腕にどのぐらいのダメージが蓄積されているのかも分からなくなってくる。ちゃんと腕が付いているのかどうかも疑問に思えてしまう。
ここまでで25秒。極論から言えば、思考能力とI-ブレインさえ残っていれば腕の一本や二本失っても勝つことは出来るのだが、ここで防御の手段を失って後25秒を乗り切る自信は晶には無かった。それにも関らず、晶は既に腕の自由を失っていることを自覚していた。
……負ける……のかな?ここで……
I-ブレインの強制終了という衝撃が抜けきらない内から繰り広げられる殴打に、意識から鮮明さが失われつつあった。このままでは負けてしまうだろうな、という思いが漠然として浮かぶが、だが、それでどうということも無いのではないか、という思いも同時に浮かんでくる。
そもそも、晶はI-ブレインの助けを借りなければ外界を把握する能力が著しく低下する。別段感情に乏しいとか何かの感情が欠落しているとかそういうことは無いから、普段I-ブレインから返ってくる危険とか行動推奨とかのメッセージに慌てたり一喜一憂したりと、普通の人と同じような感動や判断は出来る。しかし一度I-ブレインが無くなってしまうと、外界の状況に合わせた行動の指針が得られなくなってしまう。今は全神経を『攻撃に対処する』ことに絞っているからこそ防御を可能としているのだが、逆を言えば、それ以外にはどう行動するべきなのかまで考えることが出来ない。例えば、ここで晶の味方――例えば錬とか――が晶を助けに現れたとしても、その人に助けを求めるという行為すらも出来ない。いや、そもそも仲間の存在に気付くことすらも出来ないし、逆に突然ニーナがこの場を去ったところで、立ち去ったことに気付くことが出来ないため攻撃に対処しようとする姿勢を変更する考えが浮かぶことも無い。
結局、余程注意を向けている物事以外のことは総て、同じ程度の興味の向く対象でしかないのだ。例えば、目の前を赤の他人が偶然通り過ぎることと、仲の良い友人が偶然通り過ぎることの二つの事象。普通の人ならば明らかに後者の方に強い反応を示すであろうが、晶にとってその二つの事象は同程度の感動しかもたらさないのである。
だから今の晶にとっては『攻撃に対処すること』以外にどうするべき状況に自分がいるのかが分からない。防ぎきってどうするのか、防ぎきれそうになくなった場合どの程度、どの様に行動に変化を加えるべきなのか、といったことが考えられない。
「――」
そのとき何か音が聞こえたが、注意を向けることが出来ないため、何から発生した音なのかが分からない。I-ブレインの補助の無い晶にとって、風の通り過ぎる音も、虫の声も、自分に向けられる言葉も、総てが総て同じ程度の注意しか向けられていない。その上、今の晶は攻撃に対処することに集中しているため、聴覚により得られる情報を重要視していない。
「あ――」
しかし、それでも何故か、その声にだけは注意を向けるべきなのではないか、という思いが芽生えた。根拠は無い。攻撃を防ぐ手を緩める気になったわけでもない。ただ、それでもそう思った。
「あきら……」
ほんのわずかな集中力しか割けていないので、その言葉が自分に向けられているものだと分かっても、どうしても重要なものだと思うことは出来ない。そのことをもどかしく思いながらも、しかし細大漏らさないように聞く。
「あきら……ごめんなさい……」
だが、聞こえてくるのはそんな単調な言葉の繰り返しだった。それが自分の名前を指す言葉だということは分かったが、どういう意味なのかまでは分からない。
「あきら……ごめんなさい……」
単にこちらの注意力を削ぐため、という考えは、思いつくと同時に却下された。ニーナがそんなつまらないことをする人でないことは十分承知しているし、それに、その言葉には普段感じない違和感を覚えさせられたからだ。
だが、その違和感の正体は分からない。分かるような気がするのだが、それが言葉として思い浮かばない。
……何かを伝えようとしている……のかな?
そう思ってみるが、それでもよく分からない。そもそも、自分の名前と一緒に紡がれるもう一つの言葉の意味が良く分からないためだ。
実のところ、I-ブレインを使えない状況でニーナと戦う、という経験は初めてではない。むしろ、訓練では良くやったことだ。だがその時と比べて、何か違和感を覚える。言葉の意味が良く分からない。もどかしく感じるが、それでも何とか音だけを拾って、それを自分の舌で転がしてみる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
繰り返し言ってみて、ようやく言葉の意味をつかめた。
それが、謝罪の言葉である、ということを。
……けど、何だろう?何かおかしいような……
怪訝に思い、何度も言葉を口にしてみる。その間もニーナの攻撃は少しも緩まることが無かったが、もはやそんなことはどうでも良かった。
「ごめんなさい……ごめん……?」
繰り返しているうちに、ようやくその違和感の正体を掴んだ。晶は、ニーナが言っている通り「ごめんなさい」と口にしていたのだ。
ロシア語の「Извините」ではなく、日本語の「ごめんなさい」と。
それはつまり、ニーナも苦手としている日本語で「ごめんなさい」と言っていることに他ならない。
……母さん……
そこにどんな意味があるのかは分からない。だが、それを知ったことで、晶の中の何かがはっきりとした形を持った。
I-ブレイン再起動までの残り時間は15秒。だが、今となってはそんな数値も問題ではなかった。
ニーナの右の拳が腹部に叩きつけられる――が、それを敢えて受け、晶は右の拳でニーナの腕を殴りつける。突然の反撃にニーナは微かに驚きの表情を見せ、先ほどまで紡いでいた言葉を止めた。
その瞬間にも、晶は反撃を行う。ニーナの腕を殴りつけたまま、つまり肘を曲げたままの状態を利用してニーナの胸元へと肘打ちを放つ――だが左手だけでいなされ、手刀が首元へ向けて放たれる。
だが晶はその一撃を、わずかに体勢を低くして口を開け、噛み付くことで受けて見せた。
「――
!?」
これは流石のニーナも予想外のことだったのか、痛みとは別の種類の声にならない悲鳴をあげ、左手も使って外そうとする。だがその左手は晶の右手で止められ、さらには空いた左手の一撃を許してしまう。
渾身の一撃が何の防御も無いニーナの腹部に叩き込まれる。その衝撃でニーナの右手が晶の口から離れることとなったが、そのニーナの右手からは小指が噛み切られて無くなっていた。
だがそんな些事に頓着するような者はここにはおらず、ただの小事としてのみ処理され、攻防が再開された。
ニーナの拳が顔面目掛けて放たれる――左の拳を横合いから叩き込むことで迎撃する。
ニーナの蹴りが腰目掛けて放たれる――机を叩くかのような右腕の動きで叩き落とす。
胸倉を掴もうとした腕も、ナイフを手にした一撃も、死角である足払いも、そのこと如くを的確に迎撃した。
ニーナによる、最も適切な箇所へ、一切の無駄なく放たれる攻撃が、一つ残らず確実に。
だが、それを目にするニーナの瞳に驚きが浮かぶことは無かった。何故なら、それは分かっていたことでもあるのだから。
晶がニーナに勝てない、という今までに積み重ねられてきた結果に偽りは無い。喧嘩や訓練や試合では晶がニーナに勝てないのは紛れも無い事実だ。
何しろ、晶がニーナに対して唯一優れることができるのは『殺し合いで勝つことが出来る』という一点だけなのだから。
晶は、サヴァンだ。それも、I-ブレインを埋め込んでからの訓練でさらに精度を鍛え上げた、通常以上に能力に優れた。
その絶対的な把握能力と記憶能力と再現能力は、人間の限界とは別の次元に存在すると言っても過言ではない。例えば、相手のデータを完全に記憶して、相手のわずかな動き、それも筋肉の微かな伸縮や呼吸のしぐさといった極小の単位から相手の行動を先読みし、しかも自分の身体を的確に動かすことが出来、それによって『理論上回避可能な攻撃』の総てを予測し回避・迎撃することも可能なのだから。例えるなら今の晶なら、裁縫用の糸を動き続ける裁縫用の針の穴に、全力で拳を振るう動作で通すことさえ可能だ。
だがその能力は、大きな欠陥を誘発してしまうことにもなる。
それは、晶はI-ブレイン無しではたった一つの事柄に対する行動しかできなくなってしまう、というところにある。先ほどまでの防戦一方の状況でもそうであったように、『攻撃を対処する』という単純な行動を実行すると決めたら、身体が動く限りは確実にそれを成し遂げることが出来る。だからこそ、ニーナの連撃でも一度として防御を失敗しなかったのだから。むしろ、たった一つのことしか出来ないほど他のことに集中力が妨げられない状況下でないとここまでの精度では実行できないとも言える。だから、言ってみればこの能力はI-ブレインがある限り使うことが出来ない能力とも言える。
ではその何が欠陥かというと、その一つの事柄に対する行動は、何かのきっかけが無い限り解除されず、しかも対象を問わない、というところにある。
つまり、先ほどの『攻撃を対処する』という行為も、例えばニーナ以外の人物が行う攻撃に対しても同様に行うし、攻撃する対象がいなくなっても、いつでも攻撃を対処できるように延々と構え続けてしまうのである。
だから、今のように『相手を倒す』という行為を実行すると決めた場合、仮令ニーナが戦闘不能状態になったところで、その生命活動を停止させるまで攻撃の手を緩めることはしないし、また仲間が駆けつけたりした場合も、敵味方の区別が出来ないため見境無く攻撃対象としてしまうのである。しかも、『この人物を倒す』とかいう風に限定させるような具体的な命令も、その対象を理解できないため実行不可能だ。
もちろん、晶が自分の意思で解除することは可能だ。だがその状態では晶は外界を殆ど認識できないため、相手が倒れたのかどうかが理解できない。つまり、外界が今どのような状況にあるのかを知る術が無いため、都合のいいところで能力を解除できるかどうかは完全に運に任せるしかなかった。
「黎……」
血溜りが続く道を走り続け、ようやくその終着点にたどり着いた昂と希美の前には、自分以外の血で真っ赤に染まった、希美と同じくらい茶色い瞳と、昂に勝るとも劣らない漆黒の髪を持つ十歳ほどの少年がいた。その表情は人形のように無表情で、返り血が無ければ、神戸軍のものと思われる闇色の夜間迷彩服仕様の軍服を着たマネキンと言っても通用しそうな少年だった。
その少年の護衛をしていたであろう人は一人残らずここまでの道のりの中で力尽きており、今まさに、少年の足元で最後の一人の命の炎が消えようとしていた。
「……貴様ら、か。遅かったな……」
『暁の使者』所属のその男は、昂と希美を視界に納めて、どこか安堵の混じった吐息を吐いた。
「……否定はしない。けど、確かに遅かったが……それでも、手遅れではないはず」
「……そうか……そうだな。では、後は任せよう。……どうか、リーダーの狂気を、止めて、やって……」
そこで、男は息を引き取った。それを、何の感情もこもらない瞳で傍らに立つ少年が見届けた。それは、人の死すらも一顧だにしない冷酷さの表れではなく、純粋に、『死』というものを理解していないが故の反応だった。
その少年に向けて、昂は神威を構えて問いかける。
「……黎、お願いだ。大人しく――」
だがその昂の問いかけは、次の瞬間の出来事に中断させられた。
(I-ブレイン起動。『数値情報制御』起動)
……『情報制御制御』!
「希美!」
何が起こったのかを瞬時に把握し、昂が希美に呼びかける。すると、一瞬の遅滞も無く希美も能力を発動する。
(『リキ・ティキ・タビ』発動)
(『数値情報制御』開始。思考速度を1500%、身体強度を1500%に設定)
I-ブレインさえも制御下におくことが出来ることから考えるに、相手――黎の能力の方が優れているのは一目瞭然なのだが、今勝敗を決める、制御権への干渉度は互角。希美の操る魔法士の刃が黎に向いている限り、圧倒的にこちらが有利だ。
……一瞬で決める。
昂もそう判断し、身体を加速させて黎へと駆け寄る。狙う一撃は、峰打ちで腹部。それで気絶させ、ここから逃げ出す。それだけの、もはや大した問題も無いことのはずだった。
しかし、その目論見は容易く打ち砕かれる。
(高密度情報制御感知)
……――
!?
昂が警戒した瞬間、黎の身体が5,6倍程度の加速を得て、昂に肉薄してきた。速度はこちらのほうが二倍ほど速いのだが、それでも突然のことに反応できず繰り出された拳を神威で受け止めるのが精一杯で、一瞬後には昂自らが背後に飛び引いて一旦距離をとった。
「何だ、今のは?」
呆然と昂が呟くが、それに対する答えが無いまま、さらに黎が昂へと執拗な攻撃を繰り返す。
……騎士能力か?しかし、何故?
普通ではない速度で拳を放ってくる黎の、その戦力の背景が分からず昂は防戦を己に課した。
……ここは取り敢えず、少し様子を見るか。
思い、身体の加速以外に能力を割り振る。
(強化機構発動。対象を神威に限定。付加衝撃を1%に設定)
受けるダメージを減らすため、昂は神威に加えられる衝撃の力を百分の一にする演算を施す。これでしばらくは時間が稼げる。黎の能力がどのようなものかはっきり分からないが、取り敢えずすぐにどうにかされるものではないと判断する。だが――
(演算を中断。『数値情報制御』強制解除)
……しまった!
だが、気付いたときには既に遅い。黎によって一瞬だけ情報制御が解除される。その一瞬で、いつの間に手にしていたのか、右手に持った銃をこちらに向け――
銃声が響いた。
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