砂上の奇跡 〜真実の不幸と、偽りの幸せ〜
その物質ならざる存在は、少なくともこの地球上には自然状態では存在しない。できない。
物質を細分化すると、原子という単位にたどり着く。それをさらに細分化すると、陽子と電子、中性子の集合によって形成されているというところにたどり着く。
そしてそれらは、陽子はプラスの、電子はマイナスの、中性子はクォークという電荷を帯びている。
これが、通常の原子の構成だ。この世に存在するあらゆる物質の最小単位となる原子は、須らくしてこの構成を有している。
しかし20世紀の半ば頃より、マイナスの電荷を帯びた陽子の存在がささやかれ始めた。所謂『反陽子』の存在である。当初は疑問の声も多かったが、その後の研究で反陽子の存在が確認されると、雪崩を打つようにしてプラスの電荷を帯びた電子である『陽電子』、反クォークの電荷を帯びた『反中性子』の存在が確認されることとなった。
そして最終的に、反陽子、陽電子、反中性子によって構成された、物質と全く同じ性質を持ちつつも対極の電荷を持った原子、『反物質』の存在が確認されるに至った。
とは言え、その物質を存在させる方法が分かりつつも、その物質を生成し利用するには技術が追いついていなかった。その主な理由としては、反物質を作るにはあまりにも莫大な時間が必要であったことと。反物質によって得られるエネルギーは、反物質を生成する際に要するエネルギーよりも少ないということと。
そして、反物質は、否、反物質だけでなく物質もとある厄介な性質を有しており、反物質は自然状態では存在し続けることが極めて難しい、という理由からだった。
それが、『対消滅』という性質、現象である。
20世紀の終わりごろ、日本で世界初の水素の反物質の精製が行われたときにも、通常の電荷を持つ水素と反対の電荷を持つ反水素は、互いがぶつかり合うことによって互いの存在を消失してしまう、ということが確認されている。尤も、反物質によって得られるエネルギーと言えばこのことを指すのだが、それにしても下手に大気に触れさせられない上、対消滅の際に得られるエネルギーが桁外れであるため、研究は亀の歩みの如く遅いものとならざるを得なくなってしまった。
例えば、1グラムの反水素と水素が対消滅を起こした場合、初めて反物質が生成された20世紀当時の自動車を十万年間動かし続けることが出来るほどのエネルギーを得られる、と言えばその莫大さの想像がつくだろうか。20世紀に最も危険な物質として恐れられていた核兵器ですら、ICBMを十個ほど同時に爆発させることによってようやく地球を破壊するに匹敵するエネルギーを生み出すのだが、反物質は、わずかソフトボールぐらいの大きさの容器一杯に入れた量が無造作に空気中に開放されただけで事足りるほどの、核融合反応ですら遠く及ばないエネルギーを有する。
錬とフィアが作り出した反物質による爆発は、爆心地より十キロ以上離れたところにいた錬とフィアでさえ、フィアの同調能力によって爆発の影響を排除しない限り立っていられない、というほどの力を発揮した。
空間すら引き裂くのでは、と思わせるほどの衝撃と。太陽にも匹敵しかねない熱量と。物理的な破壊力すら発揮する爆音と。
ありとあらゆる破壊が数十秒に渡って荒れ狂い、跡には、遮光性気体を半径十キロ範囲で吹き飛ばされたことによって覗く青空と、地平線すら望めるほどの広々とした寒冷植物の咲く緑の大地と、大切な少女を抱く少年と、愛する少年を抱く少女とだけが残された。
青い空があり、緑の大地があって、愛する人が傍にいて……
それでも、
二人は、決して幸せだけを感じることは出来なかった。
静かな風の音が響く。
「いい風だね」
その風を気持ち良さそうに浴びながら、笑みを混ぜた少女の声も響いてきた。
「ああ」
素っ気無い返事ながらも、響く声は思っていた以上に落ち着いたものだった。
「静かだね……」
数十の銃創が刻まれた体には体力も生命ももう残っておらず、立ち上がることさえ不可能になっていた。
だが、既に昂には戦いを続ける理由は無く、この時間を惜しみなく楽しもうという意思だけが残っていた。
「ああ……」
いつ寝入ってしまってもおかしくないような、まどろみに満ちた声が返った。それが希美にも伝わったのか、希美は少し笑みを浮かべて、明らかな致命傷もある撃ち抜かれた幾数の銃創にも二人を取り囲む数十の兵士にも構うことなく、寝転んだ昂の頭を抱え、膝の上に乗せた。
「このまま……」
時間が止まってしまえばいいのに。
声には発されなかったけれど、少年には彼女のその声を鮮明に捉えることが出来た。そのことに何か返事をしようかと思ったが、言葉は何も思いつかず、ただありのままの気持ちを伝えた。
「……今、幸せか?」
唐突だったかな?とは思ったものの、希美は愛しそうに昂の額を撫でて、
「うん」
答えた。
青い空があって、緑の草原があって、そして、そばに愛する人がいる。それだけで、世界はこんなにも美しい。
仮令青い空が、緑の草原が、愛する人と愛するという自分の気持ちが、総て用意された人工のものであったとしても……
それでも今、このとき、
二人は、確かな幸せを感じていた。
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