過去よりも尊く、夢よりも儚く
〜殺意の炎〜
そこにいたのは、ゆったりとした青色が基調の和服を着た少女――女性だった。
見た目ではジュールと同じ二十歳前後で、右目の箇所を隠している漆黒の長髪を背に流し、毛先の近くでくくっている。一目見ただけではっきりと分かるほど落ち着いた感じが漂い、それを主張するかのような柔らかな微笑がよく似合っていた。
固い床に正座で座ったままこちらを見上げており、ジュールはつかの間その女性――舞衣の姿に見惚れた。
「どうかしたッスか?」
その様子を怪訝に思ったティーレが部屋に入ってきたところで、ジュールはようやく我に返り、相変わらず笑みを浮かべたままこちらを見上げる女性に近づきつつ問いかけた。
「あんたは、ここで誰を待っていたんだ?」
「分かりません。ただ、わたくしをここから出してくれる方が来るということを聞いただけですから」
「そうなんッスか?けど、艦隊に囲まれてるッスから余程のことがない限り逃げられないッスよ?」
ティーレの言葉は尤もなことではあるのだが、今からそんな中を逃げ出そうとしていた自分達が言うのも何か間違っているだろ、と思うジュールの気持ちはそう間違っていないはずだ。
「そうなのですか?それは大変なのですね」
「いや、大変なのですねって、何で他人事?あんたもここから逃げるつもりなんだろ?」
「あ、そう言われてみますとそうですね。どう致しましょうか?」
この姉ちゃん大丈夫か?という意味の視線をティーレに向けるが、ティーレはジュールが感じる頭痛の種を解しないらしく、ジュールの視線に気づかずにただ首だけを傾げた。
「……まあいい。とりあえず早いとこここを出よう。あいつに追いつかれると厄介だからな」
危機感が足りてないんじゃないかという疑問を女性二人に抱きつつジュールが座ったままの舞衣の手を強引に握って立ち上がらせ、部屋を出ようとする。が、舞衣はそれには応じずに足を止めた。
「どうした?逃げないのか?」
舞衣の様子にジュールが問いかけると、舞衣は相変わらず困った表情が微塵も感じられないまま、困った風に言う。
「逃げたいのは山々なのですが……わたくしのI-ブレインには禁則条項が書かれておりまして、無断で魔法士能力を使用したりここを抜け出したりすることを禁じられておりますもので……」
「禁則条項……プロテクトか。解除する方法は?」
一縷の望みをかけての問いかけに、マイは首を振って答えた。
「参ったな。その迎えの奴が持ってるってのか……?そいつはどこにいるんだ?」
誰かに問いかけたのではなく、自問の形での呟きに応えるものは無く、ジュールは腕を組んで思考する。
正直なところ、こんな厄介な状況で舞衣のプロテクトを解除するためのキーを捜す時間的な余裕など無い。無理やりつれて行こうにも、プロテクトの中には生命に関わるものすら存在するので迂闊な真似は出来ない。
だが、だからといってここで舞衣を見捨てるというのは嫌だった。
「そうだ。火災が発生したりここが破壊されたりすれば、緊急事態と判断して出ることを許可されるんじゃないのか?」
「いいえ……わたくしの存在は秘匿しなければなりませんので、そういう事態になりましてもここを出ることは出来ません」
自分の案が役に立たないことを嘆くべきか、その非人道的な扱いに憤るべきか、一瞬ジュールがリアクションに困った瞬間、ジュールの脇を抜けてティーレが舞衣の頭部に右手をかざした。
「……何の真似だ?」
「あたしは初めてやるッスけど、あたし達のI-ブレインはこういうことも出来るらしいッスよ」
(『文字情報制御』開始。対象設定完了、対象情報『管理プログラム』認定。『情報強度突破』を施行、『削除』処理。
対象『管理プログラム』を削除)
それで何が変わった、ということは、見ているだけしか出来ないジュールには分からなかった。けれど、当事者となった舞衣には分かったらしく、ひどく驚いた様子で――それでも傍目には大して驚いているようには見えなかったが――ティーレを見た。
「っく……中々、辛いッス、ね。……三回も、立て続けに処理、したのは、久しぶりッスから……」
言いつつ、ティーレはふらつく体を何とか立て直そうとして、けれど失敗し――ジュールに抱きかかえられるように受け止められた。
「何をしたんだ?」
ジュールが問うが、ティーレは到底応えられるような様子には見えず、むしろ疲労からかジュールの問いかけの声も聞こえていない様子で、ただ荒い息を呑み吐いていた。その様子にジュールは肩をすくめ、舞衣に提案するように、
「……仕方ない。説明は後でも良いから、とにかく――」
「ようやく見つけたで。こんなとこにおったんかい」
言いかけたところで、邪魔が入った。
声のした方を向いてみると、部屋の入り口には、外で会ったあの男が立っていた。
「お前は……」
「何や変な能力を使うみたいやけど、ここまでや。見たところ満足に動けそうも無さそうやしな」
男がティーレの疲労困憊した様子を見ながら言う。実際、荒い息を繰り返すティーレが再度魔法士能力を行使できるのかというと不安だし、何よりこれ以上の無理をさせたくない、という思いもある。
「ここのノイズメイカーが生きとったらもっと楽に捕まえられたんやが、あかんな。みんな壊れとる。そういうわけで、悪いけど意識は手放してもらうで。逃げられた手前、ただ捕まえるっつーだけにもいかんしな」
けれどそう言う男の言葉を前にジュールは、自分の身はともかくティーレと舞衣の身を案じて、ティーレに多少の無理を願おうとして――
ジュールの背後に控えていた舞衣が男の前に進み出て、言った。
「お元気そうですね、イル様。あなたは今、何のために戦っておられるのですか?」
「……何でおれの名前を知っとる?お前は誰や?」
男――イルは、ようやくそこに追いかけていた二人以外の人影があるということに気づいたかのように問いかける。
「わたくしのことを忘れてしまったのですか?……あの時一度会ったきりですから、詮無いことなのかもしれませんが……」
「あの時?……おれはお前に会ったことがあるんか?」
「ええ。ですが、もう三年以上も前のことですから。それに、あの時のわたくしと今のわたくしでは、いささか勝手が違いますし」
言って微笑む舞衣にイルはさらに怪訝な様子を深め……ようやく何かに思い当たったのか、弾かれるように面を上げて舞衣を見据えた。
「まさか、あんたはあの時の……」
「思い出していただけましたか?」
舞衣の問いに、イルは激しくかぶりを振るう。まるで何かを、それこそ、そんなことをしても無駄であるということが分かりつつも振り払いたい何かを必死に否定するかのように。
「違う!そんなはずはあらへん。あんたはあの後死んだ……殺されたはずや!」
イルの叫びに、ジュールもティーレも驚いて舞衣を見た。けれど舞衣はイルの台詞に苦笑して応えた。
「そうですね。確かにわたくしは、あなたに会った後殺されるはずでした。けれど――あなたがわたくしと会ったその後に参加したテロリスト掃討戦でのあなたの所業によって、わたくしは殺されることなく生かされることになったのです」
二人の事情を知らないジュールには何の話なのかさっぱり分からないのだが、二人の事の成り行き次第で自分達の未来が変わるということは重々理解できている。つまりこれは、
「何というか……まな板の鯉の気分だな」
「……意外と、神経図太いッス、ねえ……」
まだ呼吸の整わないティーレにすら呆れられた。それはかとなく理不尽な思いが無いでもなかったが、そんな不満を口にするよりも早く、イルが動いた。
「この際、あんたが誰やろうと構わへん!」
叫びながら舞衣に肉薄し、惚れ惚れするような動きで右の拳が舞衣の懐めがけて放たれ――
(高密度情報制御感知)
それを邪魔するかのように、どこからともなく獅子の身体と鷲の翼を持った生物――グリフォンと呼ばれる空想上の生き物が現われ、イルに向けて右前足の爪を振るう。
「――!?邪魔や!」
一瞬の判断で舞衣に向けられていた拳を引き、対象をグリフォンの頭部に変えて再度放つ――直撃、したかに見えた。しかしイルの拳は、いや、イルの全身は、グリフォンの頭部を後一歩のところで殴る、という体勢で止まっていた。
「な、何……?」
イルは、信じられないものを見るように己の腹部を見下ろし、深く抉られた自分の腹部の傷を眺め――血を吐きながら、力なく膝を付いた。
「避けられなかったのか?量子力学的制御でも?」
「はい、イル様の能力はわたくしには通用いたしません。……わたくしは、いざという時あなたを殺すことのできる能力を持っていたため、生き延びさせられたのですから」
ジュールの驚きの声に、舞衣は悲しそうな笑みを浮かべながら呟く。
「ど、どういう意味なんや?それ……?」
「……あなたは、マサチューセッツにまだ完全には信用されているわけではない、ということです。あなたがモスクワに来てからの働きはわたくしもよく知っています。それは十分信用するに値するものに思えますが、もしかしてそれは、自分を拘束するプログラムを外すためだけの演技ではないか、と疑っている方もいるのです」
「そんなことを聞いてるんやない!あんたが生かされた理由が、おれを殺すためやて!?それも、マサチューセッツが?」
イルの問いに、舞衣は頭を振って答える。悲しそうな笑みはそのままに、けれどもそれ以外に苦笑に似た色を混ぜて。
「ですから……ここは、お互いに何も見なかったことにして、見逃していただけませんか?あなたはわたくしに会わず、わたくしもあなたに会わなかった、ということにしていただけませんか?」
「それは……そんなことは……」
「お願いいたします」
舞衣の提案に、イルはわずかな間迷いを見せ、肯定か否定か、どちらかの答えを返そうとしたその瞬間――
イルの耳に付けられた通信素子が叫んだ。
『イル!今どこにいる!?もうすぐマサチューセッツ軍からの攻撃が開始されるぞ!まだ艦内にいるのならすぐに出ろ!』
「マサチューセッツが?モスクワ軍は何してんです!?これはモスクワ軍の軍艦なんですよ!?」
『分からん。制止する声は何度かかけたが返事が来ない。とにかく、艦内にいるのなら早く出ろ!いくらお前でも、炎で高温に熱せられた空気で呼吸する訳にはいかないだろ』
「そりゃそうですが、こっちもちょっと立て込んでるんですよ!何とか留まるようにして下さい!」
イルは慌てて通信素子に返すが、返事はあまり芳しくないだろうということはすぐに分かった。ジュールは、ようやく呼吸が整いつつあるティーレを歩かせて部屋を出る。
「舞衣さんも来てください。すぐそこがフライヤーのある格納庫ですから」
「……はい、分かりました。
それではイル様、失礼させていただきます」
通信相手と言い争うイルを尻目に、三人は部屋を出て格納庫の扉の前に立つ。ジュールがロッドを扉に叩きつけるが、それがただの徒労に終わると諦めた風にティーレに言う。
「もう一回制御出来そうか?」
「多分。けど、その後動けなくなるだろうッスから、引っ張ってくか見捨てるかして欲しいッスよ」
扉に手を当ててティーレが言い、I-ブレインを起動させる。そして、情報制御が行使されるという瞬間になって――
横合いから差し出された手が、格納庫の鍵穴に何かを差し込み、捻った。すると、カチリ、という音とともに鍵が開き、さらにもう一本差し出された手が扉のノブを掴み、開けた。
「イル様?」
「……おれはお前達……いや、その人と一緒にいるとこを見られるわけにはいかへんやろうからな。……互いに素性も知らん仲やが、これも何かの縁やと思ってその人を守ってやってくれへんか?」
マイの問いかけには答えず、イルはティーレを支えるジュールにそう言って、格納庫とは逆の方向に歩き出した。
「あ、ああ……。分かった。やれる限りのことはやってやるさ」
「すまんな。……尤も、もしお前らがこの襲撃に関与してるっていうんやったら、また敵として会うことになるんやろうがな」
背を向けて歩きながらイルはその言葉だけを残し、通路の角を曲がって姿を消した。後に残されたジュール達は少しの間その方向を眺めていたが、すぐに踵を返して格納庫の中へと入った。
「期待はしてなかったけど……それでも期待を裏切ってくれる程度の幸運はあっても良いんじゃないかよ?」
「何訳の分かんないことを言ってるッスか?そんな愚痴を吐いてる暇があるんだったらさっさと開けて下さいッスよ」
愚痴をもらしながら艦の制御を奪って格納庫を開こうと端末相手に悪戦苦闘するジュールに、隣で同じように端末をいじり、奥に収納されているフライヤーを発着できる場所まで移動させているティーレが返す。
「愚痴ぐらいでうるさく言うなよ。軍の端末を相手にするなんて久しぶりなんだからよ」
「言い訳は聞かないッスよ。あたしだってそう経験があるわけじゃないんスから。
……それにしても、どうして発着できる状態になってるフライヤーが一つとして残ってないんスかね?」
「おそらくそれは、ここの乗組員の方が乗っていかれたのだと思います。この艦は不時着した後何者かと戦っていましたから、その何者かを追いかけて行ったのでは無いかと思います。それに、おそらくイル様が残った方も引き上げさせたのではないでしょうか。あなた様方がいらっしゃることも分かっておいででしたから、戦闘に巻き込まれることを避けようとして」
「そうなんスか?けど、わざわざ格納庫を閉めてくなんて律儀な人がいたもんスね。それとも、あたし達にフライヤーを盗まれないようにするためッスかね?」
「そういう訳じゃないだろ。わざわざ格納庫を閉じたんじゃなくて、ここの格納庫は誰かが開く制御をし続けない限り自動的に閉まるように設定されてるんだろ。単独ではここからは出られないようにな。……違うか?」
端末を制御している内に気づいたのか、それとも推理の賜物か、ジュールのその言葉は正しかったらしく舞衣は申し訳なさそうな表情で頷いた。
「そうなんスか?けど、それじゃああたし達も誰か一人は逃げられないんスか?」
「馬鹿やろう。それを何とかするために俺がこうして悪戦苦闘してるんじゃねえか」
言いつつも、ジュールもその作業のあまりの面倒さに閉口し始めていた。どうやらこの艦は何者かを閉じ込めるために特別に作られたものらしく、ネットワーク内に存在する防壁のレベルはそう大した物ではないのだが、とにかく普通では考えられない程面倒な作業と時間を要するように作られていた。『時間稼ぎ』という意図がはっきりと見て取れる。
「手間取ったが何とかなったな。急ごしらえだから後で機能不全の元になるんだろうが……まあいいだろ。開けるぞ」
ジュールの言葉とともに、ゆっくりと扉が開き始めた。その様子に満足そうに頷き、視線を隣に立つティーレに移して問いかける。
「どうだ?フライヤーは準備できたか?」
「ええ、出来たッスよ。けど、ここまで運ばれてくるにはもう少し時間がかかりそうッス」
どうやら、使用目的ではなく予備の目的で搭載されていたフライヤーしか残っていなかったらしく、頑丈に固定されたワイヤーが外され、天井からつるされたクレーンに引っ掛けられて所定の位置に到着するには、確かにまだ少し時間がかかりそうだった。
「まあ、いくらなんでもすぐには攻撃してくることは無いだろ。あのイルって男もまだ艦外に出られてないだろうし、何とか止めようとしてもいるらしいからな。それよりも、ここを出てからどうやって逃げるかを考え――」
言葉が終わるよりも早く、ジュールの瞳はありえないものを捉えてしまい、言葉が不自然に途切れてしまう。フライヤーが運ばれてくるのを眺めていたティーレと舞衣は、ジュールのその様子を不振に思い、ジュールと同じ方向――格納庫の外へと視線を向け――
同じように硬直した。
「あれって、荷電粒子砲の――」
「伏せて下さい!」
ティーレの呆然とした声と舞衣の声が重なり――
(レベルシフト:0→3――『生体デバイス』:オン、起動:安全機構解除。
稼働率:180%。展開:『境戒の筺――きょうかいのはこ――』、対象面:4面
レベル4到達可能性:2%)
艦は、跡形も無く爆散した。
I-ブレインが攻撃を感知した次の瞬間には、イルは炎の中に包まれていた。もし一瞬でも存在確率の消失が遅れていたら危なかったところだったのだが、それでも今の状況が安心できるかというとそうでもない。
先ほど通信していた相手が言っていたように、いくらイルが全ての攻撃を避けようとも、その身体が人間のものである以上、呼吸することを避けることは出来ない。そして、炎によって高温に熱せられた空気を吸い込むと肺だけでなく内臓を焼いてしまうことになり、致命的な損傷を受けることになってしまうためだ。
けれど、その心配は杞憂に終わった。何故なら、艦を狙った砲撃は過剰ともいえるほど苛烈なもので、艦の壁や床も綺麗に吹き飛ばしてくれたので、イルは何に邪魔されることも無く炎から抜け出すことが出来たからだ。
そして、炎から逃れて深く呼吸をしてから、イルは自分が逃げてきた艦を振り返り――呆然と立ち尽くした。
「……何なんや?一体。これは本当にマサチューセッツの仕業なんか?」
力なく呟きつつ、イルが何かに誘われるかのように艦に向かって一歩を踏み出したとき、通信素子が男の声を吐き出した。
『イル!無事か!?イル!!』
「ああ、おれは無事ですよ。……破片が残らんぐらい完璧に破壊してくれましたから、何とか逃げられましたわ」
皮肉として呟いた言葉も勢いは無く、ただ呆然としてしいる、という様子を相手に示す役にしか立たなかった。
『すまない。真偽は不明だが、マサチューセッツの話では通信が妨害されていたとかでこちらの制止は聞こえていなかったとのことだ。だが、お前が無事だったのなら良かった』
通信している相手のその言葉は本気のものなのだろう、イルにも相手が本当に安心している、ということが伝わってきた。けれど、イルはそのことに感謝することも出来ないまま、
「とにかく、一旦戻りますんで迎えに来てください。近くに艦が着陸できるところはありますか?」
『ああ、そこからだと北西に進んだところに少し開けたところがある。そこで落ち合おう』
「分かりました。それじゃあ、すぐに向かいますんで」
言って、イルは相手の返事を待たずに通信を切った。
「馬鹿馬鹿しい話や……。出会えた思たらすぐに別れか。……そんなにおれには彼女を見せたくなかった言うんか?……くだらん話や、本当」
言葉は辛らつだが、今にも泣き出しそうな声色で呟いて、イルは北西の方角へと歩き出した。
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