間章
「小さな一歩 大きな踏み出し」
ついに動く――――『世界』
「…………そういうことね」
虚ろな空間。ただイメージのみで構成される万象の根源。
己の”在り様”がそのまま反映される情報の海そのもの、―――『世界』。
抽象的な己の内面に意識を落としていた少女はただ一言を呟いた。
少女の名はリューンエイジ。リューンエイジ・FD・スペキュレイティヴ。
『調律士』の字を冠し、『世界』を名乗るこの世でたった二人のうちの一人である。
だがしかしその肉体は既に滅び、今はただ意識のみがこの世界樹のコアに宿っていた。
投影ディスプレイに黒髪の少女の姿が映し出される。
しかしいつも満面の笑みで話し掛けてくる『龍使い』の少女や、自分より前にここの守り手であった人形使
いの子はいない。
つい先ほど彼女らは飛び出していった。
否、そうするように自分が言ったのだ。
先日感じた『世界』の異変。
それはまさしく”欲望”の侵食。
おそらく放たれたのは欲望の全能機関は第三位と第四位。
オリジンたる”代行者”と”騎士王”が出なかっただけ幸いか。
だが、今のリューネはそれとは全く別のことに思いを耽らせていた。
「そういうことだったのね」
再び、言葉を繰り返す。
それは自嘲のようでもあり、また後悔の溜息のようでもあった。
イメージの中で拳を握り、開く。
この身に宿りし”絶対”―――『三千大千世界』。
世界そのもの、情報の海そのものに直接干渉し、あらゆる情報定義の基準を再構築して無窮の世界を作り出す能力。
そうだ。それが、それこそがリューンエイジ・FD・スペキュレイティヴの能力。
どんな能力だろうと追いつくこと叶わぬ。
この世界において、あの『無量百千載』を除けば拮抗はおろか、対抗すら出来ぬ究極の一つ。
しかし、
「……無様ね」
―――しかし、それならば何故、この身はたかだか『黄金夜更』から逃げ回らなければならなかったのか。
『三千大千世界』は理論上、あらゆる不可能を凌駕する。
たとえ何百という戦艦が相手であろうとも殺さずに無力化することもできるはずだったのだ。
けれども、―――逃げた。
無様にも逃げ惑い、泣きわめき、そしてついには肉体を殺された。
異常だ。
何故戦わなかったのか。
何故自分の身すら守れなかったのか。
何故あの仲間の信頼を裏切ってしまったのか。
その答えを、やっと見つけた。
いや、見つけたのではない。
「……あはは。そうね、こんなこと―――思い出すまで忘れてた」
ぎり、と歯を食いしばる。
「やってくれたわね……『Id』」
呪いの言葉を吐き捨てる。
そうだ。何て無様だろう。
あのとき、『黄金夜更』に追われていた時、
――――――自分は一度たりとも『三千大千世界』を使用していないのだから
使ったものは空間改変の一つのみ。
そう、”改変”だ。断じて”固定”には至っていなかった。
プラントの空間乱数接続も、所詮は序の口。
『アレイスター』から逃げた時などはただ通路を作っただけだ。
「考えが及ばなかった。『世界』を名乗る私に、ううん、”私達”に首輪をつけないことなんてあるわけなかった」
自分はともかく、あのバカ兄貴は究極の気分屋なのだ。
いつ牙を向くか判らない番犬を野放しにする阿呆はいない。
故に、『Id』がリューネとウィズダムに何らかの”拘束”を課すことはある意味当然であったのだ。
「あのバカ兄貴には『移ろう世界』の拘束を。私には、深度2以上の能力を”忘れさせた”のね」
それはまだI−ブレインだけの存在であったときの拘束だろう。
いかな『調律士』とはいえ、異常を感じなければ直すこともできない。
「ああもう情けないったらありゃしないー」
がしがしとイメージの中で器用に頭を掻くリューネ。
「うゅー、もう死んでるケド一生の不覚だわー……」
後悔する気は無い。
無いが、それでも今この現状で自由に動けないことはもどかしい。
いや、
「……そうね。死んでるからって、そんなの理由にならないわね」
力があり、意思があり、手段がある。
ならばどうして手をこまねいて見ていることができようか。
世界の危機を、仲間の危機に、死んでいる場合ではない。
「そんなのあったりまえ。それに―――」
―――それに、アレは自分こそが立ち向かうべき敵だ。
「ザラットラまでは雑魚だけど……、正直、イグジストとヴィルゼメルトは、錬たちにはキツイ、かな」
『Id』が守護者は第一位・「天災の御柱」ヴィルゼメルト。
同じく第二位・「神焉斬刹」イグジスト。
彼ら二人は守護者の中でも別格だ。
五つの鍵の中で「天」と「神」の字を許された真なるオリジン。
「かろうじて、ファンメイならなんとかなる、かな……」
今や封じられていた記憶は完全に呼び起こされている。
『Id』の守護者の詳細。戦力。保有艦隊。その全てを思い出した。
そして、今のままでは『Id』を滅ぼすことはできない、ということも。
「まったく……私は本来戦闘向きじゃないんだってば。そーゆーのはあのバカ兄貴専門なのにー」
むぅ、と頬を膨らませるリューネ。
戦闘向きではない、と言っているが、彼女の『三千大千世界』はこの世において最強を超えた『絶対』の一つであ
る。
対抗できるのは同じく『絶対』の一つ。
馬鹿馬鹿しいほど馬鹿げた馬鹿である『御使い』。リューネの兄でもあるベルセルク・MC・ウィズダムの『無量
百千載』のみだけだ。
『世界』そのものを根本から叩き潰して改変し、新たな『世界』を作り上げるという絶大無比の力。
けれどもリューネの能力はウィズダムのそれとは毛色が違う。
ウィズダムがより先鋭的な概念を改変する『世界』に特化したというのならば、リューネはその逆。
彼女はより包括的な概念を改変する『世界』を得手とする。
『七聖界』との対比がもっともわかりやすいだろう。ウィズダムのそれはより即物的だ。
特定一つの情報定義を改変し、それぞれに応じた『世界』を持つのが『七聖界』。
もっとも、”七”という数字を使っているのは単にウィズダムの趣味なだけで、実際に
は十、二十を超える『聖界』が存在するのだが。
対してリューネはそういった特定の『世界』を有さない代わりに、『世界』のカテゴリーに囚われない選択を可能と
している。
たとえば、彼女が自らに禁忌と課している『変則調律』という技がある。
これは他人の存在情報に介入し、それを無茶苦茶に書き換えることによって存在矛盾を発生させて自滅させるという恐ろしい絶技である。
これには防御も回避も不可能。情報防壁を降ろしても腕一本はもっていかれてしまう。
さらには『魂の詩』や、『延性時間』。はてや『熾天満たす光輝の祈り』という三大究極絶技の一つまで保有するリューネだが、
「うにー、肝心なときにあの馬鹿は何やってんのよー」
……彼女にとっては、これでもまだ”戦闘向きではない”らしい。
むくれたまま立ち上がり、少女は天を仰ぐ。
見えない。
雲に包まれて何も見えはしないが、それでも少女の世界感知は情報の海の奥底から忍び寄る”破滅”を感じ取った。
「……随分と早い。『アレイスター』級を三つも配備、ね。……まったく、手の込んだことで」
嘆息する。
けれども、目の力はより輝きを増していた。
来るなら来いと。
この身は既に滅びた存在。『Id』にしてみれば格好の予想外のジョーカーであるはずだ。
だから、まだ表に出るわけには行かない。
そのためにヘイズやエドに加護を与えたのだ。
「だから……それまでは、頑張ってよ、みんな」
時が来れば。
時が来れば全てを片付けるから。
私が、私とあの馬鹿が全ての罪を清算するから。
あの欲望の城から零れ落ちた欠片として、絶対にあいつらを叩き潰すから。
だから、それまでは―――頑張って。
無責任とみんなはなじる?
理不尽だとみんなは怒る?
それでもいいよ。それでもいいから、……頑張って。
「あの時に決めたんだもんね。―――泣くのはやめた、戦おうと」
それだけが全て。
それだけでいい。
ややこしい理由なぞ犬に食わせてしまえ。
そうだ。馬鹿こそが世界最強。
屈さず、曲がらず、挫けず、あきらめず。
ののしられようと、罵倒されようとも、決して曲げはしない。
だから、
「だから、今ここで宣言してやるわ、『Id』」
一息。
「―――守護者は第終位、『世界』の名において告げる」
この誓いは、世界のためなんかじゃなくて、みんなのために。
誰もが笑って暮らせる世界を取り戻そうとする、そんな願いにこそ捧げよう。
「誓いはここに。私の信じる世界はここに。全てを超えて輝く日まで、決して消さない、終わらせない」
言葉はいらない。
態度で示せ。
けれどもこれは宣戦布告。
ならば、一丁派手に打ち上げるのが道理というものだ。
(プロテクト解除認証コード、スタート)
さぁ、確認することすらできずに剥目するがいい欲望の軍勢。
これは狼煙。貴様らに歯向かう最強最後の戦力がここにいるという証である―――!
「――――――太極より出で」
言祝がれるは世界の祝詞。
リューネを真なる存在へと昇華させる第一の鍵である。
「両儀を通じ――――――四象を仰ぎ――――――八卦へと至る」
言葉と共にリューネの中で今までかかっていた制限が一部だけ外されてゆく。
しかしこれでもまだ3割。絶技の封印を解いただけである。
「悲しみの■に現れて、■ ■を 、 日 ぐ ――――」
リューンエイジ・FD・スペキュレイティヴ、戦いの口上。第一聯。
『世界』の字を冠するものが自らに制約としてかけたプロテクト解除キーワードである。
これを解除することによって、リューネとウィズダムは真に『世界』を名乗る存在になるのだ。
「我、終わりより始まりへと導く者也」
リューネはそっと手を掲げ、祈るように目を閉じた。
「全ては己に胸を張るために、ってね」
それでおしまい。
誰も知らない宣戦布告。
けれどそれは、大きな波となっていつか『世界』を覆うであろう。
先ずは一歩。
小さいけれど確かな踏み出し。
「ていうか、”目覚し”かな」
遠く千里。
惰眠を貪っているあの馬鹿をたたき起こすことはできただろうか。
「それはおいとくとして。そいじゃま、いっちょー始めますかー」
むん、と気合を一つ。
黒髪の調律士の映像は陽炎と共に掻き消えた。
誰も知り得ない小さな小さな抗いの種はここに蒔かれた。
それは鉄の大地を割って生まれ、鉛の空を突き抜ける意思の種。
百花繚乱咲き誇り、豪華絢爛舞い踊れ。
――――――さぁ、祭りの始まりだ――――――