In case of Ri Fammei
11:00。
講義終了の文字が現れると同時にリ・ファンメイはヘッドセットをはずして、かすかに頭をふる。
ぱさりと黒い髪がながれて、今日は時間がなかったからまだ結ってないんだということを思い出した。
「ふんふん、ふん」
口をついて出た鼻歌はデータライブラリにあった、『パーフェクトワールド』という歌。歌手は忘れたけど。
たとえすべてを失っても、明日に望みがもてなくても、青い空があり緑の草原があり、そして愛する人が側にいれば、それだけで世界は美しい。
髪を結い、ドレッサーの前で確認。にへら、と笑って今日も1日が始まる。
片面を青空のCGが埋め尽くす廊下を歩き、ついたのは中央訓練場。
島の中で唯一本物の青空を見ることが叶う場所は、ここしかない。だからファンメイは朝起きて時間があれば、なければ講義や戦闘訓練が終わってから、必ず1日1回は中央訓練場に赴いた。
ファンメイが育てている花が咲き、それらを含めた少しの草木が根を伸ばしている土が敷かれた、青空の空間。
そこで、黒い奔流が渦巻いていた。
「わあ」
ファンメイは間抜けな声を上げて待機ブースにはめこまれた強化ガラスから中をのぞきこむ。戦闘訓練中は中央訓練場へ続くドアにはロックがかかるので、中に入りたくても入れない。
ファンメイが覗くガラスの向こうで渦巻いている黒い奔流には2種類ある。槍のような無数の触手と、鋭い牙を持ついくつかの顎。
触手が顎を巻きついて動きを止め別の触手がそれを撃ちぬき、そこに群がった触手をまとめて噛み千切るひときわ大きな顎。黒の水とI-ブレインとの接続が途切れて、噛み千切られた触手の断片が黒い水と化しばしゃりと地におちる。
そのままミルク色の髪の少年の元へ走った黒い顎は、しかしその頭を食む前にピタリと止まった。
見れば、一本の触手が顎を操っている薄茶色の髪の少女の背後に生まれていて、さらさらした髪に触れるか触れないか、といったところで停止している。
―――サイレンが鳴って、実験終了。
同時に、全ての黒の水が力を失い、するするとそれぞれの主のほうへ引き戻されて行く。
ガァ、と開いたドアから入ってきた薄茶色の髪の少女は、ファンメイに気付くと柔らかい笑顔を送った。
「メイ」
「ルーティ、おしかったね」
「もう少しだったのだけれど」
ルーティは後からついてきた黒の水を水槽に戻して、待機ブースのファンメイがいるほうとは反対の出口に向かう。
「私はカイとお昼ご飯を作るから、キッチンにいくけど…メイは、花のお世話?」
「うん、いってくるね!」
たた、と駆け出す元気な同い年の少女の背中を見て、ルーティは1人、にっこりと微笑んだ。
お花、お花。
訓練場の隅にある清掃用の水道の先にある小さな弁を回して、そばにたてかけてあった如雨露に水を受ける。
ひとつでは足りないのでふたつ目の如雨露も弁の下にかざし、じゃぶじゃぶと泡をたてて澄んだ水が溜まり、重くなった2つの如雨露を抱えて花が咲き乱れる中央訓練場の一角へと、
運ぶ途中でそれに気付いた。
遠く、ファンメイが入ってきたほうとは反対側の待機ブースのガラス窓からこちらを見る、黒い髪の少年の姿。
いつもならファンメイはそれにかまうことなく歩き続けたが、この日はなんとなく、声をかけてみたくなった。
進路変更、如雨露を携えてブースのそばまで歩く。こちらに向かってくることに気付いたのか少年はドアの影に隠れたが、それでもやめようとは思わずにファンメイは自動ドアに近付いた。ガァ、と開いて、そこにはむっつりと不機嫌そうにだまりこむ少年の姿。
「シャオ、いっしょにお花に水あげようよ」
不機嫌そうな顔がぴくりと動く。
「…いいけど」
ぶすっとした声で答え、そのあまりの素直さにファンメイが唖然としている間にシャオロンはファンメイから如雨露を2つともむしりとっていた。
それもふまえて驚き、ファンメイは思わず確認してしまう。
「え…いいの?」
「いいよ」
ぷいっとそっぽを向いて答えるシャオロンを見ていて、ファンメイは妙に嬉しくなり、
「ねえ、ほんとにいいの?」
「いいよ!」
シャオロンが少し語気を荒くして、びくりとしたファンメイを見てまずい、というような顔になり、
「あ…うん。いいよ。俺だってたまにはメイに付き合うから」
と補足してなんとかファンメイの笑顔を取り戻した。
「そっかぁ」
といってファンメイは鼻歌を歌い、シャオロンは無言で歩くうちに花が咲く一角へとさしかかる。
シャオロンから渡された如雨露を持ち、手近な花に水を与えた。その横ではシャオロンも、不思議そうな顔をして花に水をやっている。
ふと、ファンメイは目を細め、上を見上げた。自分の部屋や廊下に表示されている作り物とは違う、本物の青空がファンメイの上に広がっている。
サァァァァ…。
「ふんふん、ふん」
と、鼻歌を歌う。
たとえすべてを失っても、明日に望みがもてなくても、青い空があり緑の草原があり、そして愛する人が側にいれば、それだけで世界は美しい。
中央訓練場の一角で、ファンメイは水を撒きながらその歌詞の意味するところを考える。
青い空があり緑の草原が愛する人が側にいれば、それだけで世界は美しい。たとえすべてを失っても、明日に望みがもてなくても。
それはすごいことのような気がした。そのたった3つで世界は美しくなるのだから。
青い空。
ファンメイは今一度頭上のドームに囲まれて見える空を見上げ、それが青いことを確認する。
緑の草原。
緑だけではないが、草の原、と言われてみれば草原じゃないと言えないこともない。
愛する人。
となりで水を撒いているシャオロンに目を向ける。愛する…人?
「ねえ、シャオって」
その時。
ファンメイは奇妙な電波を感じた。
それはファンメイの声にこちらを向いたシャオロンも同じだったらしく、二人そろって顔見合わせ、はてなマークを浮かべる。
「待機ブースの端末の故障かもしれない」
「うん…わたし、見てこよっか?」
シャオロンは首を振り、「俺が見てくるから、メイは水をあげてから来て」といって待機ブースのほうに走り出した。
ファンメイは遠ざかるその背中を少し頼もしく思い、自分は早くお花に水をあげてしまおうと花たちに向けて如雨露を傾ける。
<訓練生番号27、リ・ファンメイ、2191年6月8日、活動停止>
そのログが刻まれるのは、もう少し先のことだ。
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