亡國遭遇ハカマイリ
気を抜くと吹き飛ばされてしまいそうな猛吹雪。
視界は真っ白に染められ、1メートル先は暗闇しか見えない。
降り積もった雪は溶けることなく、どこまでも続く大雪原を広げている。
陰鬱な色彩を帯びた茫漠と広がる白黒の世界。
その雪の大海原を、二人の人間が這うようにゆっくりと歩いていた。
二人とも白色の分厚いコートとフードに身を包み、先頭の人間は大きなリュックを背負っている。
ゴーグルとコートで顔をすっぽりと隠しているので、相貌ははっきりとしない。
なぜかかんじきを使わずに、雪の中を泳ぐように進んでいる。
身を沈めておけば“敵”に発見されにくいということを考慮しているのなら、彼らは“戦士”なのだろう。
二人とも、小柄な身体をしていた。
背の高い方は少年で、後ろの小さな人間は少女だろうか。
先頭の少年は、腹まで積もった柔らかい新雪を掻き分けて後ろの少女の為に足元の雪を何度も踏み固めながら進んでいた。
少女はぴったりとくっついてその道を歩く。
二人のコートもフードも雪原迷彩色の白色なため、一見すると白い中を白い固まりがもこもこと動いているようにしか見えなかった。
そのまま数時間、彼らは休むことなく進む。
時折、少年が少女を気遣い手を差し伸べるが、少女は首を振って答えた。
ふと、少年の視界の前方に三階建てほどの建造物らしきものが入った。
少年がそこで休憩しようと提案する。
息も絶え絶えの少女が頷き、二人は一直線にその建物へと向かった。
建物の元へ着いた彼らは、愕然とした。
壁の至る所にある、戦車砲や銃弾によって空けられた見るも無残な穴。
周りを見渡せば、朽ちかけた家屋と瓦礫の山が雪にその身を沈めていた。
目に付く壁のほとんどにどす黒い血痕がこびり付いている。
氷柱のように凍った大量の血痕が、ここで内戦が起こったことを訪れる者に知らせていた。
「――――――――ここだ、ヒナ」
フードを外した少年が、辺りを見渡しながら囁きかける。
びゅう、と吹き荒れる強風に掻き消されそうな声は、確かに隣の少女に届いた。
「ここが―――――――」
少女もフードを外す。
鮮やかなエメラルドグリーンの髪が舞った。
「ここが、シュベールの妹が眠る場所――――――」
+ + + + + +
≪熱力学第三法則のサタン起動≫
三脚に置かれた固形燃料に火が灯る。
ボウ、と燃料が勢いよく燃え上がり、暗い室内に明かりと熱をもたらした。
休憩の為に比較的損傷の少ない民家に入ったが、壁に開いた銃痕から入る冷たい隙間風は防ぎようもない。
ヒナが小さな身体を炎に近づけて熱を貪る。
論も掌をかざしてかじかんだ指先を暖める。
二人の間には必要最低限以上の会話はない。
その原因は、この家の壁にも残る“黒ずんだ染み”のせいではない。
数ヶ月前に起こった、シュベールとの激闘。
呪われた宿命。
明かされた残酷な真実。
敵であり、味方になるはずだった少女との別れ。
論は、ヒナのためにもここを訪れるつもりはなかった。
だが、『シュベールの代わりにお墓参りをしたい』というヒナの願いは断れず、遠い道程を経て、ここまでやって来たのだ。
シュベールとの最初の出会いが行われた、忘れ去られたこの地へと。
「――――ヒナ」
明日の予定について話をしようと、ヒナを呼ぶ。
しかし、ヒナは反応しない。
肩に触れ、もう一度呼びかける。
「ヒナ?」
「ッ!」
肩に触れられ、反射的に振り返ってしまったのだろう。
流すまいと我慢していた涙が、新雪のように白い頬を伝い落ちる。
「あ・・・」
「・・・論・・・」
ヒナが、論の腕の中へと飛び込んだ。
涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を胸に押し付ける。
「ヒナ・・・」
震える背中に腕を回し、優しく抱きしめる。
「論・・・わたし・・・わたし・・・!」
――――あたしは全力で振舞った。――――
――――どれだけ憎まれてもいい。恨まれたって、構わない。――――
―――ヒナに酷く当たれば、あたしが死んでもヒナが悲しまずに済むって、ただそれだけを思ったから―――
――――――――やはり、この娘もつらいのだ。
シュベールはヒナを想うが故にヒナを傷つけ、痛めつける事で、逆にヒナを守ろうとしていた。
愛するものを自らの手で傷つけ、それでも守りたい一心で、鞭を振るった。
憎悪にも匹敵する、巨大で深い愛情の奔流。
―――――あたしはね、論。貴方の大切な人になりたかったの。―――――
―――――論の隣に居たかったの。―――――
―――――論の為に生きたかったの。―――――
―――――あの時、あたしを助けてくれた論と一緒に生きたかったの―――――
論への彼女の愛情は、それこそ“殺意”に勝るとも劣らないものだった。
強く激しく狂おしく求める、少女の剥き出しの願望。
何を犠牲にしても惜しくないほどの剥き出しの欲望。
なぜ、もっと早くシュベールの思いに気づくことができなかったのか。
そう思うと、胸が張り裂けそうになる。
自分よりも強く、自分よりも弱い少女の泣き声を聞きながら、論はただ黙って小さな身体を抱き締めることしか出来なかった。
+ + + + + +
昼夜夜空よりも濃い黒雲が天を埋め尽くしている世界に、昼と夜の概念はそもそも成立しない。
休憩をとり始めてから5時間が経過した。
ちょうど固形燃料の火が弱まりかけ最後の輝きを放ち出そうとする頃に二人は出発した。
時間にして21時だが、前述の通り世界に変化はない。
論の踏みしめた雪の上をヒナが歩く。
ぽつぽつと乱立する崩れかけの建物以外は何も変わらない景色の中を進んでゆく。
シュベールは、この地獄が創り出される過程を目に焼き付けていたに違いない。
1時間程経った頃に、論が前方を指差した。
『もうすぐ着く』の合図。
ヒナが頷き、論が再び踏み出そうとして、
「―――――論、ダメッ!」
ぐい、と背中を引っ張られ、危うくバランスを崩しかける。
踏みとどまって、咄嗟に上半身まで雪に沈める。
睨むようにして前方に目を凝らす。
≪知覚能力増強。知覚能力を30倍に定義≫
200メートル近くは離れているだろうか。
二人の直線状には、石と残骸で造られたシュベールの亡き妹の墓。
その墓前に、二人の人間が立っていた。
黒いコートとフードを着込んだその二人は、墓に何をするでもなく佇んでいた。
「ありがとう、ヒナ。よく気がついたな」
「役に立てるでしょ?わたしも。それより、あの人たちはあそこで何してるんだろう?」
「シュベールの知り合いか?にしては、凸凹コンビというか・・・・・」
夜間迷彩の防寒服を着込んだ彼らは、身体つきからして男と女のようだった。
男、というより少年は、論とそれほど変わらない背丈をしている。
その隣の少女は、小柄とはいえヒナよりは大きいだろうか。
「私たちもあんまり変わらないと思う」
ヒナがすかさず突っ込みを入れる。
「たしかに」
論の身長は164センチで、ヒナは152センチだ。
ヒナの身体年齢15歳から考えると、女性では小さい部類に入るだろう。
凸凹コンビと言うなら、むしろこちらの方が凸凹かもしれない。
「それで、どうするの?論」
「・・・・・」
論が二人を観察する。
こちらと同じく大きめのリュックしか所持していないのを確認する。
軽装でこのような訪れる者のいない地に来ているということは、おそらくは二人とも魔法士である可能性が高い。
あらゆる能力を抽出し、鍛造することが可能な<悪魔使い>の進化系の<魔術師>である自分の力には自信がある。
しかし、ヒナを危険な目にあわせることは出来得る限り回避したい。
ふと、視界の右隅に、体育館か何かであろうドーム状の建物が見えた。
「戦いになることは避けよう。一旦あそこへ身を隠す」
「うん」
二人が中腰で屈んだ姿勢で顎の高さにある雪を掻き分けながら進みだした。
雪で吸収されるとはいえ、なるべく音を立てないように、頭を上げないように進む。
ドームの壁に穿たれた巨大な穴まで残り1メートルと少し。
戦闘を嫌うといっても『もう一つの賢人会議』に所属していた魔法士だけあって、ヒナは音を立てずに着いてきていた。
論が振り返る。
先に行け、という合図を目線で示し、ヒナが頷いて論の隣を擦り抜けてゆく。
(後は、あいつ等がどこかへ行くのを待つだけか・・・・・)
真っ白なフードを深く被りなおして、ほんの少しだけ顔を出して様子を探る。
―――――――――少年と、目が合った。
「な―――――!?」
墓を向いていたはずの少年は、あきらかに身体をこちらへと向けていた。
油断なく身構えたその姿には、隙というものが感じられない。
こちらを向いたフードの中は、奈落に繋がっているかのように暗い。
その、フードの中にわだかまる闇の中で、双眸が暗く燃えていた。
猛禽類の如く鋭い、凶暴な瞳。
心臓に氷の刃を突き刺されたような冷たい緊張が背筋を走る。
「―――ちぃっ―――――!」
慌てて頭を引っ込める。
200メートル近くは離れている。
吹雪で視界も悪い。
雪原迷彩でほとんど見分けなどつかない筈だ。
しかし、少年は確かにこちらを見ていた。
いや、睨んでいた。
『物事は常に最悪の場合を考えろ』
どの軍隊のどの階級でも習う、初歩の初歩の鉄則だ。
「論?どうしたの?」
「見つかった!」
「・・・嘘!?こんな距離で、こんな状況だよ!?」
「だが、確かに目が合ったんだ!」
目を丸くするヒナを急いで抱えると、低姿勢で目の前の穴へと急ぐ。
運悪く世界最高ランクの魔法士だったのか、それとも獣並におそろしく勘がいい奴なのか。
とにかく、見つかった以上戦闘が行われる可能性が出てきた。
ならば、出来るだけこちらに有利な場所を戦場にするべきだ。
完璧な兵士のように一瞬で判断すると、論は崩れかけたドームの中央へと走った。
+ + + + + +
「ん?どうしたの?」
ぷは、とマスクを外した少女が、墓に背を向ける少年に声をかける。
黒いフードの下に黒いマスクとゴーグルを付けた少年は振り返らずに答える。
「・・・誰かがいた」
へ?という少女の間の抜けた声。
「どこに?」
「3時の方向、距離は180メートルと少し。見えるか?」
「無理!私は『身体能力増強』なんて持ってないもん」
即答する。
すると少年は不思議そうに少女を見て、
「使わなくても見えるだろう?」
「・・・無理だってば・・・。んで、どうするの?」
少年は少しの間逡巡してから、
「動きがかなり機敏だった。特殊兵かもしれん。万が一でも“追っ手”の可能性があるのならここで叩いておくのが一番だろう」
「寝込みを襲われてはたまらない」とぼやくと、少女を指差し、
「お前は」
「“お前は待っていろ”は絶対嫌だからね!私も着いてく!」
最後まで言わせずに、じろりと少年を睨む。
少年の方が背が高いが、睨み上げられた少年は「う」とたじろいだ。
少女を指す指が溜息とともに折れる。
「・・・・・わかった。行こう」
「そう来なくっちゃ!」
二人は、まっすぐにドームへと足を踏み出した。
+ + + + + +
「―――――ここにしよう」
照明のないドームの中央部、広く開けた暗黒の空間を戦いの舞台と定める。
四方が200メートルほどの広い空間は、やはり正視出来ないほどに荒れていた。
論は、そこに広がる残骸の大きさや位置、荒れ果てた床や壁や天井の様子を頭に叩き込んでいく。
戦闘を有利に進めるのなら、状況をしっかりと把握しなくてはならないからだ。
「ヒナ、『同調』で隠れられそうな、なるべく遠くの安全な場所を探してくれ。やばくなったらそこへ行くんだ」
「わかった」
頷くと、瞼を閉じる。
瞼の皮膚の下で眼球がせわしなく動き、周囲の状況を解析する。
突然、ヒナの肩がびくりと動いた。
「どうした?見つかったのか?」
「―――――見つかりました」
安全な場所が見つかったというのに、なぜかゴーグルの下のヒナの表情は険しい。
「・・・ヒナ?」
「あの人たちが、まっすぐこっちへ向かってきます」
ヒナは『安全な場所が見つかった』のではなく、『自分達の居場所が見つかった』ことを察知したのだ。
――――――――コツン
「――――!!」
反射的に騎士刀『菊一文字』の柄を握る。
カツン、カツン、というブーツの硬質な足音が四つ、近づいてくる。
二人分の足音。
その規則正しいリズムは、訓練された兵士特有のものだ。
やがて、20メートルほど離れた正面の暗闇から、生えるようにして二人の人間が現れた。
こちらの姿を認めると、その歩を止める。
「貴様等、何者だ」
論が『菊一文字』の鯉口を斬る。
ちき、という騎士刀特有の音。
「―――――ほぉ」
少年と思われる人間が感嘆ともとれる声を上げ、腰の後ろに手をやる。
――――――――ちき
鯉口を切る音。
「乱暴な会話のセンスはともかく、得物のセンスはいいらしいな」
マスクでくぐもった少しハスキーな声がドームに響く。
「・・・ふん」
論の無表情の顔が一瞬歪む。
少年の腰に帯びられた、細いシルエットに片刃の鞘は、間違いなく騎士刀だった。
所持しているのは一振りだけのようだが、特殊な形状をした外部戦闘用デバイスにはそれぞれ独特の能力がある。
自分の『雨の群雲』やシュベールの『真紅の鞭』がその証拠だ。
油断はできない。
だが、そんなファクターを取り除いたとしても、論自身の本能が『こいつは強い。気をつけろ』と警鐘を鳴らしていた。
少年の身体から発せられる研ぎ澄まされた空気は、触れると切れる鋭利な刃物を連想させる。
「ヒナ」
隣で緊張しているヒナに小声で囁く。
「どこか安全な場所に避難しているんだ。急げ」
「え?で、でも私だって戦えるよ?」
ヒナが不思議そうな顔をする。
論は言うか言わまいか迷うが、静かに、諭すように言う。
「ここは、シュベールの妹が眠る場所だ。ここで、“シュベールの妹”であるお前が戦っては、いけない」
あ、とヒナが苦しそうな表情をする。
一歩、後ろへ身を引く。
「・・・うん。わかった。論、絶対、私を一人にしないでね」
「当たり前だ」
それを聞いたヒナが駆け出して、
「・・・魔法士の兄妹とは、珍しいな」
少年の声に、ヒナの足音が止まった。
論の背中を不安そうに振り返る。
「違う。恋人だ」
照れを含んだその答えに、ヒナは花が咲くように笑った。
その口が、愛おしそうに「論」と呟く。
「恋仲・・・・・?」
少年と少女の視線が、論からヒナ、ヒナから論へと動く。
「「・・・・・くっ」」
「な、なんで笑うんですか!?」
ヒナが上半身を乗り出して怒る。
確かに背は小さいし、顔も童顔だから実際よりもほんの少しは幼く見えるかも知れないが、笑われるほどでは断じてない。
・・・・・はずだ。多分。
「ヒナ、早く行け。それは俺がみっちりと問いただしておく」
うんわかりましたちゃんとみっちり厳しく問いただしておいてね、と一息にまくし立てると、ヒナの姿は背後の暗闇へと飲み込まれていった。
「――――――」
少年も小声で少女に何かを言う。
少女が頷き、彼女もまた背後の暗闇へ溶けた。
「女には女をあてる、ということか?」
怒りを込めた声と同時に、しゅら、と小気味のよい音を鳴らして騎士刀『菊一文字』を抜刀する。
装飾が施されたそれは闇に美しく映えた。
ヒナ・シュテルンは、魔法士としての力は十分すぎるほどに持っている。
だが、今までの度重なる悲惨な戦いと残酷なシュベール戦の影響は決して無視できない。
雑念を振り払って戦えるのかどうか疑問が残る。
論としても、シュベールの妹が眠るこの地で、シュベールが妹と呼んだヒナの手を血で汚したくはなかった。
刀をぶらりと下げ、『無為の構え』をとる。
峻厳と輝く刃には、論の怒りが見て取れた。
少年も抜刀する。
逆手に抜いた刀を片手で器用に回すと、両の手で握り正眼に構える。
「言っている意味がわからないな。俺はあいつを安全な場所に逃がしただけだ」
「信用出来ない」
唾棄するかのように即答する。
黒いゴーグルと防寒マスクで隠れた少年の表情はまったくわからない。
暗闇の中で、少年の飾り気の無い純銀の刃がこちらを睨めつける様に煌いていた。
「心配しなくても、あの女に追撃なんて器用な真似は出来ん」
『追撃なんて器用な真似は出来ない』。
それは、“追撃以外”なら得意だということなのか。
シュベールの凶悪な笑みが論の頭をよぎる。
“いたぶること”が趣味だと言っていた、あの少女。
「・・・なら、何が出来るんだ?」
ドスを聞かせた凄みのある声で問う。
純然たる殺意を少年へぶつける。
それを臆することなく真正面から受け止めた少年は、3秒ほど考えて、
「・・・・・特に何も出来ない」
カイーン。
言った直後に、暗闇から飛んできた空き缶が少年の頭に命中して跳ねた。
「・・・・・訂正する。“何でも出来る”」
「・・・そうか」
込み上げて来る笑いをこらえる。
これは信じてもいいかもしれない。
「では、こちらも問おう――――――貴様らは、何者だ?」
少年の、少年らしかぬ昏い声。
常人なら身体が凍りつくような脅しだったが、数多くの死線を潜り抜けてきた論には通じない。
「なぜさっき笑ったのかを答えて俺の連れに謝ったら、教えてやってもいい」
相手が脅しに屈しなかったことに驚いたのか、再びほう、と感嘆の息を吐く。
「場慣れしているらしいな。なら、答えは簡単だろう」
「ああ」
短い会話はこれにて終了。
互いに、次にとる行動は決まっている。
≪I−ブレイン、戦闘起動≫
「「力ずくで聞き出すまで」」
+ + + + + +
とぼとぼと、ヒナは暗闇をどこへ行くともなく歩く。
安全な場所で隠れていろ、と論は言っていたが、私は戦える。
隠れる必要なんてない。
腰の後ろに帯びた双剣を握る。
「・・・でも・・・・・」
ここは、シュベールの――――――
剣を握る手から力が抜ける。
ここで私が戦えば、シュベールはきっと悲しむ。
「・・・論・・・」
論はいつも私のことを考えてくれる。
論がいなければ、今の自分はきっと今存在しない。
論なら、すぐに帰って来てくれる。
信じて、待とう。
ヒナの手が剣から離れる。
せめて論を応援しようと、丁度いい場所を探すことにした。
段状になった観客席に、手ごろなベンチを見つける。
論からもかなりの距離があるし、あそこなら安全だろう。
しかし、座ろうと思った席の中央にはすでに先客がいた。
黒いフードとコートを着込んだ、自分より一歳ほど年上の少女。
「あの、すいません。隣に座っていいですか?」
「え?あ、どうぞどうぞ」
親切に、少女は席の隅へ移動してヒナの分のスペースを空ける。
ヒナが礼を言って座ろうとして、
「「――――――え?」」
二人の声が見事に唱和した。
「な、なんで私があんたに席を譲らなくちゃいけないのよ!?」
「な、なんで貴女がここにいるんですか!?」
思わず剣を手に取る。
身体が勝手に双剣を構えた。
少女も驚くほどの速さで腰の銃を抜いてヒナの頭に照準をつける。
――――――しかし、
(―――――震え、てる・・・?)
少女の銃は、かたかたと震えていた。
フードの下の大きな水色の瞳も、恐怖と迷いで濁っている。
この人も、戦うことを嫌っている。
話せば、わかるかもしれない。
どうしようかと話のきっかけを探す。
「・・・・・ねぇ」
唐突に、少女が話しかけてきた。
「・・・剣、震えてる」
「あ・・・・・」
自分でも気がつかなかった。
ヒナの騎士剣もまた、かたかたと小刻みに震えていたのだ。
「あ、あの・・・・・」
剣を腰の鞘にしまう。
「休戦、しませんか?」
「・・・OK。そうしましょう」
少女も、銃をコートのホルスターに収める。
少女がベンチの右端に座る。
ヒナが左端に座った。
「・・・実は私、戦いはめちゃくちゃ弱いの」
少女がフードを外して呟く。
水色のツインテールがぱさりと飛び出た。
抜けるような白い肌と大きな水色の瞳が印象的な、美しい少女。
―――――その横顔が、今は亡き“姉”と重なった。
「だから、戦わなくてよかった」
そう言って、少女は春のように微笑んだ。
もしも、シュベールとヒナが本当の姉妹だったなら、こんな風に会話していたかもしれない。
「――――――はい」
ヒナも、戦わなくてよかったと心から思えた。
+ + + + + +
≪運動・知覚係数制御開始。身体能力増強を15倍、知覚速度を40倍に定義≫
まずは小手調べ。
敵の実力を測りつつ、有利なフィールドを最大限に利用して必勝の作戦を立てる。
そして、ヒナの元へ急ぐ。
「おい、そっちの刀は抜かないのか?」
少年が殺気を緩めずに『菊一文字』の鞘に隠れるように帯びた『雨の群雲』を指す。
「切り札は“強敵”のためにとっておくものだ。違うか?」
何の臆面もなく言う。
そう。『雨の群雲』は論の切り札の一つ。
幾度となく命を助けられた、頼れる戦友だ。
「なるほど」
少年が、気にした様子もなく頷く。
「ならば――――――」
その身体がゆっくりと前のめりに倒れていく。
暗い色を帯びた鋭い双眸が、はっきりと見えた。
「さっそく使ってもらおうか」
一歩、少年の右足が極自然な動きでコンクリの床へ踏み出され、
床を踏み砕いたと視認した瞬間、純銀の切っ先が論の網膜を貫こうとしていた。
「くッ―――――!?」
ぐん、と全身の筋肉を使って、天井を見上げるように上半身を反らせる。
予測を遥かに上回る神風の如き斬撃に、フードは切断され、前髪が風圧に巻き込まれて幾本か千切れる。
すぐさま体勢を立て直し、返す刀で翻ってきた斬撃を『菊一文字』で弾落した、はずだった。
渾身の力を込めた刃と刃が激しく重なり、拮抗状態に突入する。
ぎぎぎ、と不快な音を立てて刀身から火花が散る。
そして、浮遊感。
気がつけば、足が地面から浮いていた。
(―――――馬鹿な―――――!)
力押しで吹き飛ばされた、と現実を理解するのにはコンマ1秒もいらなかった。
空間ごと断裂させかねない斬撃を受け止めた『菊一文字』が震える。
壁に吸い寄せられているような感覚。
速やかに着地の態勢をとって、少年を睨む。
少年の姿が、ノイズのように掻き消える。
≪身体能力増強を23倍、知覚速度を69倍に再定義。『雨の群雲』とリンク確立≫
思考が判断するよりも早く、身体能力と知覚能力を最高限度にまで引き上げる。
『雨の群雲』の柄を掴み、抜刀。
瞬間、論の体内に炎が宿る。
燃え盛る業火ではない。
極限にまで高められた炎は青白く、波紋一つない湖面の如き静けさを持つ。
世界最高レベルの能力を持つI−ブレインが唸りを上げ、冷静な判断力とそれを補う力を論に与える。
未来予測ではなく、空気の振動で敵を探る。
(―――――左!)
身体をゴムのように捻り、両の刀で十字を形作る。
転瞬、論の側頭部を串刺しにするはずだった一閃が弾かれる。
「―――――まだまだ、これからだ」
低い囁き声を残し、再び少年の姿が掻き消える。
しかも、今度はさらに疾く。
「ちぃ―――――!」
常軌を逸した速度と膂力が論に襲い掛かる。
翻る手さえ見えぬ剣舞が始まった。
少年は神業としか言いようがない速度で論を翻弄しつつ、自由自在な角度から斬撃を繰り出してくる。
その姿はまるで黒い風だ。
対する論は二刀流を巧みに操りそれを迎撃する。
斬撃の上に斬撃が重なる。
振るわれる度に刀の速度は上がり、斬るというより叩きつけるような重い衝撃が論の身体を打ち振るわせる。
少年の動きは人の規格を超越したものだったが、それに応じる論の演舞は、あまりに完璧すぎるがゆえに完成度の高い殺陣のようだった。
その動きは、まるでブレードのついたコマ。
あらゆる方向に瞬時に対応し、襲い来る必殺の猛攻を一つ残らず切り払い、向かう先に容赦なく反撃を叩き込むダンスマカブル。
純銀の刀身と刀身が風を斬って吼える。
激突する人知を超える絶殺の刀と刀。
静かに、しかし迅速に交差する白と黒の人影。
地面を這うように煌く刃が地を両断し、切り裂かれる大気の悲鳴が鼓膜を穿つ。
抉られ破砕されゆく足場においても、二人の動きに一切の無駄はない。
互いに必殺の一撃を繰り出し続け、それを紙一重で見切ってかわし続ける。
たった3秒間の舞で振るわれた刀の数はもはや数え切れないほどに至っている。
論の突きを避けた少年が、初めて後ろへと飛び跳ねて間合いを取った。
「驚いた。本当に、驚いた」
感嘆以外の何者でもない、賞賛の声。
少年は論の実力に心底目を見張っているようだった。
少年に息の乱れた様子はない。
だが、それは論とて同じだった。
息を静かに吐き出す。
呼吸は少しも乱れてはいない。
迷いもない。
心はどこまでも澄み渡り、限りなく透明へと近づいてゆく。
眼前の“敵”の一挙動一投足、いや、筋肉の僅かな動きでさえ感じられるまでに集中力は高まっている。
それゆえに、少年の心理も感じとることが出来る。
押し殺された鋭い殺気は、論を決して侮ってはいないという証拠だ。
おそらく、互いが互いに畏怖にも畏敬にも似た感情を抱いているだろう。
「こっちも驚いた。予想以上にすばしっこいな、お前」
今までの戦いでわかったことは、身体能力ではこちらの分が悪いということ。
もう小手調べなどとは言ってはいられない。
『菊一文字』と『雨の群雲』を再びぶらりと下げて静かに身構える。
脱力した身体は、向けられる闘気の全てをいなしていく。
それは『無為の構え』と呼ばれるもの。
敢えて構えを解き闘気を消すことで、相手に次の行動を予測させないという、武術を突き詰めた者のみが辿り着く窮極の構え。
少年もまた上段に刀を構える。
剣術の基本中の基本の姿勢にして、業を完成させ至高の領域に達した武人が選ぶ、自由自在唯一万能の構え。
論のどちらの刀よりも一回りは長い一振りの刀が、闇に刃の軌跡を描いた。
「これでも俺は“強敵”ではないのか?」
ふざけているような台詞には、しかし、確かに敵意を感じる。
「いや、確かにお前は恐るべきスピードとパワーの持ち主だ。・・・だが、見切れないほどじゃない」
論の頬に、引きつったような笑みが浮かんだ。
長い間忘れていた戦闘の熱い高揚感が、身体の内側から湧き上がり満ちてゆく。
互いに一歩も引かず、命という名の火花を散らしながらぶつかり合う純粋な“戦闘”。
猛者との戦いに身を灼く、感激にも快感にも似たこの感覚――――――――
だが、それを感じていたのは論だけではなかった。
少年の身体から滲み出る、かつて見たことがないほどに凶悪なまでの闘争本能。
洗練された激しい闘気が湯気のように立ち昇っている。
会話は途切れたままだが、今この瞬間、修羅道に身を置いた二人の間に言葉は必要ない。
刀と身体があれば、それだけで会話は成立する。
張り詰めていく、空気。
闘気は二人の間で衝突し、緊張感は否応なく高められてゆく。
相対する敵から放たれる身体を串刺しにしかねないほどの殺気に、眠っていた闘争本能が高まり、武者震いを引き起こす。
「どうした?疲れたとでも言うんじゃないだろうな?」
少年が挑発的な笑みを浮かべる。
「それなら、ちょうどいいハンデだろう?」
論も不適な笑みで返す。
「手加減は出来んぞ?」
「手加減してやろうか?」
会話が途切れた瞬間、二人の顔から、笑みが消えた。
互いが放出する高密度の闘気が、周囲の光景を陽炎のように揺らめかせる。
放たれた大気が冷え切った大気を燃やし、互いの闘気の衝突点にある床に亀裂を走らせる。
それを合図に、二人が同時に地を蹴った。
極限まで鍛え上げられた鋼と鋼が爆発的な速度で激しく合間見える。
恫喝の如き鈍い衝撃音が、幾百回と閉鎖空間に響き渡った。
+ + + + + +
ヒナも、隣に座る少女も、ただ唖然とするしかなかった。
二人の視線の先では、冗談ではないかと思うほどの激しい剣舞が行われていたからだ。
弾けるように動き、極限まで高めた力をぶつけ合う。
床に手を突き胴を持ち上げ、アクロバットさながらの見世物を披露するように相手の連撃を回避する。
一秒間に数百回に昇るであろう、必滅の鋼と鋼が打ち鳴らす金属音の大音響。
幾百回、幾千回と人知を超えた速度で閃光が炸裂する。
しかも、それは序の口とでも言わんばかりに、二人の戦いは激化の一歩を辿っていく。
二人の刀は空気抵抗をものともせず、むしろそれすらも切り裂くほどの切れ味で暗闇に幾筋もの軌跡を焼き付けてゆく。
命の駆け引きをしているにも関わらず、それはまるで完成された一つの芸術作品のようだ。
張り詰めた死線の気配はこちらまで押し寄せてきて、全身が強張り、呼吸することすら忘れそうになる。
「・・・・・凄い」
ヒナが思ったままを呟く。
シュベールや自分との戦いとは一線を画す、人の規格を完全に凌駕した者同士の殺し合いは、ひどく典雅であり、見蕩れるものすらある。
通常、複数の能力を操る<悪魔使い>系列の魔法士にとって、単一の能力だけで、その能力に特化された魔法士と渡り合うのは困難を極める。
<悪魔使い>の本質は、あくまで“能力の同時使用”なのだ。
しかし、論はそれを見事に覆していた。
「・・・同感。私もこんな戦い見たの初めて。あんたの彼氏、何者なの?」
「え?」
『彼氏』という言葉に、ヒナが思わず上擦った声を出す。
「違うの?あんたの彼氏なんでしょ?あの化け物」
「あ、そうなんですけど、その、はっきり言われるとやっぱり照れる――――― って、化け物って何ですか!!」
コロコロと表情が変わるヒナに、少女がくつくつと笑う。
「心配しなくても、あんたの彼氏よりもあの人の方がもっと化け物よ」
そう言って、楽しそうに不敵に微笑む。
二人が見守る中、突如として論の姿が掻き消え、一瞬後に少年の背後に現れる。
ヒナが論の勝利を確信して、
「―――――本当に、化け物みたいに強いのよ?」
轟音が鳴り響き、小柄な身体が鈍い音を立てて吹き飛んだ。
+ + + + + +
後方へ飛び退ると同時に、白いコートの胸元が刀閃に切り裂かれた。
戦いへの喜びに満ちた黒い瞳を油断なく見据えながら、宙で体勢を立て直し、着地。
悔しいが、剣技でもわずかだが論のほうが不利のようだ。
少年の能力はおそらく、剣技に長ける純粋な<騎士>。
それでは、複数の能力の同時使用を前提とする<魔術師>の論が接近戦のみで戦いを挑んでも敵わないのは自明の理。
ならば。
≪『雨の群雲』、完全同調。抗える時の調べのサタン起動≫
防戦一方で埒が明かないと悟った論は、惜しげもなく切り札の一つを使う。
I−ブレインが目まぐるしく回転し、運動能力が59倍に、知覚速度が120倍に跳ね上がる。
だが、これでは敵を倒す決め手には成りえない。
相手は、まだ自分のことを<騎士>だと思っているはず。
それを利用しない手はない。
≪極限粒子移動サタン起動≫
律儀なI−ブレインの報告を知覚するが早いか、肉体の熱量が急激に低下する。
≪身体能力を50、知覚速度を100倍に再定義≫
熱を持たない生物は、筋肉はおろか、心臓すら動かすことは出来ない。
I−ブレインが、論の生命維持と高速で動く身体を襲う反作用を打ち消すために限界寸前の演算処理を行う。
I−ブレインの疲労蓄積率が急上昇するが、論にそれを気にする余裕は無い。
極限粒子移動サタンは諸刃の剣。
下手をすれば命を落としかねないこの能力は、自己領域の欠点である“敵を領域内に取り込んでしまう”ことがない。
熱量のなくなった論の身体が刹那的な時間の中、少年の背後に回り込む。
“気配”で敵の位置をはっきりと知覚していた少年にとって、熱が消えた瞬間、論は生物と認識されなくなった。
脳の熱も低下し意識の薄れゆく論の身体はI−ブレインのプログラムに沿って自分自身を構成する肉体を一瞬間だけ原子分解。
その瞬間、少年の世界認識から論の存在は完全に消滅する。
「な―――――に!?」
少年の口から漏れる疑問と驚愕。
一秒にも満たない時間が経過した後に、再び肉体が再構築される。
突然、自己領域を使ったわけでもなく忽然と姿を消した敵を探すためには、どんな人間でも隙を作らざるを得ない。
論が自身の肉体の再構築の場所に選んだのは、少年の背後からわずか数メートルの位置。
再構築されたばかりの足が最初の一歩を踏む。
疾走を開始した論と少年の距離は、限りなく零に近づく。
『雨の群雲』が流れるように突き出される。
全体重を乗せた稲妻の如き一刺は背骨をすり抜け心臓に被弾し千の棘となって少年の内部を殲滅―――――――
いや―――――――おかしい!
脳天を貫くような鋭い危機感に煽られ、“突き”の構えだった『雨の群雲』をがら空きだった懐に引き戻す。
少年は背中を見せていた。
しかし、意識は背中を向いている。
ずどん。
世界を包み込むような轟音。
少年のコートを突き破って、454カスール弾が論に向かって放たれたのだ。
『雨の群雲』の刀身が、大砲じみた威力を懸命に受け止める。
454カスール弾の240gr弾頭の弾丸重量は優に2tを超える初活力を発生させる。
いつもは洗練された鋭い形状を誇る刀も、今はその線の細さがひどく心細い。
『雨の群雲』の限界強度と情報解体の出力がせめぎ合う。
I−ブレインが戦慄の悲鳴を上げる。
(454カスール弾――――――大口径リボルバーか!だとすれば、残弾は5発!)
論が冷静に分析すると同時に、少年が翻る。
その手には、役立たずの巨獣なみの銃身を持つ<コンストリクター>が握られている。
「ちぃいッ!!」
ほぼ同時に明滅する五発分のマズルフラッシュ。
一発目の弾丸をなんとか情報解体すると、すかさず残りを『雨の群雲』で弾き飛ばす。
≪―――――DANGER!『雨の群雲』強度限界!!≫
「くそ―――――!」
決して脆弱ではない『雨の群雲』がついに根を上げ始める。
弾丸には、微細な硬化論理回路が刻まれていた。
もともと『雨の群雲』は自己領域と身体能力増強を併用させるための外部デバイスである。
立て続けにこれほどの衝撃に耐えられるようには考えられていないのだ。
六発目の衝撃を殺しきれないと瞬時に判断した論が、銃弾を刀身で受け止めつつ大きく後ろに跳び退る。
飛び退る瞬間、狙撃する爪を展開。
スピードローダーで次弾を装填し再び銃撃の構えを見せようとした少年のコンストリクターを猛速で弾く。
舌打ちをした少年は弾かれた銃には目もくれず論を追撃する。
(――――――なんて奴だッ!)
内心でそう吐き捨てると、刀身を滑らせ未だ回転する弾丸の軌道を変える。
極限粒子移動サタン使用の瞬間、確かに少年は隙を見せていた。
“存在のない者”の動きさえ予測するなど、情報制御技術では不可能だ。
一旦着地し、足の裏から這い上がってくる衝撃を強靭なバネで殺して、流れるようにバックステップを踏む。
その瞬間、鼻先を死神の鎌のようなハイキックが掠める。
それが外れたと悟るや否や、少年は勢いを腰の捻りに変えて槍のような肘撃を繰り出してくる。
すんでのところでそれを避け、踏み込みざまに『菊一文字』を斬り払う。
それを少年は軟体生物のように身体を捻って避ける。
その柔軟で変幻自在の闘争能力はまるで、獣のよう――――――――――
――――――――獣のよう?
まさか、と思いつつ、氷河の槍を展開させる。
氷の結晶の煌きが少年の背後で収束する。
瞬間、夜走獣のように低く駆けていた少年の動きが変わる。
少年が膝が地につくほど深くダッキング。
コンマ1秒前まで少年の首から上があった空間を氷槍が貫く。
論の意思で、それは少年の頭上で派手に割砕する。
即席の氷の凶器が幾つもコンクリートに突き立つ。
―――――が、すでに少年の姿はそこにはない。
彼は猫科の動物がそうするように“前足”を突いて、遥か後方に飛び退いていた。
着地地点に擬似生命躍動サタンによって擬似生命を与えられたコンクリートから巨大な腕が生えて―――――――――
チリ、と脳が焼きついたような錯覚。
少年は腕が生える前にコンクリートに騎士刀を突き立て、情報解体をしていた。
騎士と比べることすらおこがましい、恐ろしく鋭敏な危機察知能力。
まるで、本能に忠実に戦う肉食動物の如き察知能力。
(―――――そうか。こいつ、勘でわかったのか)
種は割れた。
しかし、仕掛けがわかったからといって、簡単に勝利を確信する気分にはなれなかった。
動物の勘で極限粒子移動サタンを見破った者など、初めてのことだ。
戦闘中に、勘で敵のいると思われる場所に銃弾を撃ち込むなど、よほど自分自身に自信を持っていない限り出来ることではない。
論は改めて、猟犬のような少年に畏怖の念を抱いた。
「はぁあっ!!」
「ッ!?」
突然、雄叫びを上げて、少年が刀を放り上げた。
全身の筋肉を使って滑り込むように論の懐に飛び込んでくる。
拳を握ると、腰を沈めてファイティングスタイルをとる。
(な―――――!?)
刹那、弾丸よりも速い拳が放たれる。
それはまさに神速と呼ぶに相応しいスピードであり、立て続けに撃ち出される拳は弾幕と化してゆく。
突拍子もない行動に呆気にとられ一瞬行動を止めた論は、それらを回避することが出来なかった。
咄嗟に頭部を腕でガードする。
骨が砕かれそうな衝撃。
全身を貫く、痛覚を持って生まれたことを後悔させる鈍痛。
痛覚を遮断するが、トドメにと放たれた強力なボディブローの威力は遮断できない。
がらんどうになっていた腹にめり込んでくる鈍重な衝撃が身体を突き抜ける。
一瞬息が止まり、食道から逆流した血反吐が床に飛び散る。
しかし、論は倒れない。
「ぐっ―――――なんの!」
たたらを踏みそうになった体勢を素早く調える。
論は倒れると踏んでいたのか、ブローの拳を突き出した状態のまま少年は動きを止めていた。
不屈の意思を察知した少年が上身を引いて回避行動をとろうとするが、すでに遅い。
ぶん、とあらん限りの力で振った『菊一文字』の柄が少年の側頭部を直撃した。
「ぐぅッ―――――!?」
砕けたゴーグルが吹き飛び、少年の目が覗く。
しかし、何かを見上げるその視線は、論を向いているのではなく―――――
少年の腕が、天へ向かって突き出された。
その先端の掌に、木の枝に降り立つ鳥のように、放り上げたはずの刀の柄が収まる。
「ッ!!」
空間さえも、少年の刀は易々と薙ぐ。
閃光のような煌きが、奇跡的に飛び退いた論の顎を掠め、薄皮を切り裂いた。
少年は攻撃の手を休めず、論を追いかけて地面を蹴る。
距離をとって体勢を立て直そうとするが、少年は論が後ろへ引いたのと同じだけの距離を詰めてくる。
怒涛の波状攻撃は留まることを知らない。
振り上げられた刀が、論の頭目掛けて打ち落とされる。
刀を防御に回そうとするが、間に合わない。
見えざる光のサタンを展開する猶予もない。
地面に足をつけていない状態では回避のしようもない。
(―――――避けられないッ!)
そう判断した論の顔面に、刀身が迫る。
少年は、勝利を確信した。
+ + + + + +
「ろ、ん・・・・・・・・?そん、な・・・・・そんなことって・・・・・!」
ヒナが呆然とした声で論の名を呼ぶ。
へなへな、と膝が折れて、その場に崩れ落ちた。
「だから、言ったでしょ?」
少女の不敵な声。
その声はどことなく震えている。
逆三角形を形作る顎を、汗が伝い落ちた。
「―――――あんたの彼氏、化け物だって」
+ + + + + +
「な、ん、だと―――――ッ!?」
間違いなく必殺となるはずだった一撃は、論の頭を両断することはなかった。
少年が驚愕し、これでもかというほどに目を剥く。
少年の刀は、受け止められていたのだ。
少年の柄から刀身へと目を移す。
その切っ先を受け止めているのは――――――――歯。
論は、歯で刀を受け止めたのだ。
理解できない状況に混乱したのか、少年に隙が生まれる。
論はそれを見逃さず、着地の瞬間、ボディブローのお返しにと膝を突き上げる。
天空を打ち抜くかのような鋭い膝蹴りが少年の胸元を強打し、後ろへと吹き飛ばす。
鳩尾にめり込んだ衝撃に、少年の身体が空中で折れ曲がる。
だが、少年も倒れはしなかった。
空中でくるりと回転すると、膝を突いて着地する。
「刀を歯で受け止めるとは・・・・・恐ろしい奴だな」
少年が半ば呆然と呟いた。
こめかみから流れた血が床に滴り、凍る。
論が、まだ少しジンジンと痛む顎を擦って、応える。
「それはこっちの台詞だ。勘でオレを見つける、いきなりボクシングスタイルで攻撃してくる・・・・・。滅茶苦茶だ」
それは論の本心だった。
大戦の英雄曰く、『魔法士同士の戦闘の本質は極めて論理立ったものであり、チェスやポーカーに近い』とのことだが、少年の戦闘行動は行き当たりばったりで論理も何もない。
格闘能力だけを取るなら、少年は今まで戦った誰よりも頭一つ抜けている。
そのしなやかな動きはテコンドーやカポエラにも共通し、一撃の重さではボクシングをも凌駕する。
一言で言うなら、これまでに論が戦ったことのない種類の相手だったのだ。
「経験することはいいことだ。勉強になったろう?」
少年は肩をすくめると、再び刀を構える。
「ふん。どうだかな」
論も応じるようにして無為の構えをとる。
ただ対峙しているだけにも関わらず、論は体力の消耗を感じていた。
極限状態が精神を擦り減らし、肉体を疲弊させてゆく。
しかし、心だけは水を打ったように静かで穏やかだ。
(さて、どうするか・・・・・)
一触触発の空気の中、精神を研ぎ澄まし、対策を練る。
隠している手札は、残り7つ。
熱力学第三法則のサタン。
抗える時の調べのサタン。
見えざる光のサタン。
天使逆転支配サタン。
そして時の流れは終結に。
絶対死・天樹。
そして、能力生成を行う<魔術師>の能力。
この中で少年に通用しそうにないものは除外していく。
抗える時の調べのサタンは<騎士>の自己領域のコピー。
極限粒子移動サタンを勘で破った相手に、自己領域解除の隙を見せるのは自殺行為だ。
見えざる光のサタンは<悪魔使い>から得た劣化版<光使い>の能力のさらに劣化コピーだ。
速度は劣り、空間歪曲率も弱い。
刀を使ったほうがまだマシだ。
天使逆転支配サタンはそもそも使う必要がないし、そして時の流れは終結にを使う隙を与えてくれるような敵ではないのは明白だ。
それに、もし使ってしまえば、むざむさヒナを危険にさらし、シュベールの妹の墓を荒らすことになってしまいかねない。
<魔術師>の力を使おうにも、相手が<騎士>では取得できる能力がない。
役に立ちそうな能力は、
熱力学第三法則のサタン。
絶対死・天樹。
の2つだ。
絶対死・天樹を喰らわせることが出来ればそれで終わりだが、魔法士相手にはまだ試したことがないうえに、スピードとパワーに一日の長がある相手が素直に受けてくれるとも思えない。
実のところ、少年は論が最も嫌うスタンダードタイプの魔法士なのだ。
能力が特定され、単純かつ基本的であるがゆえに、洗練された能力を誇る。
「そっちから来ないのなら―――――――」
考え事をしているのを悟られたのか、少年が眉間に皺を寄せて低く唸る。
「こちらから行かせてもらおう!!」
意識を集中する。
相手の動きを的確に把握し、ほんの僅かな筋繊維の伸縮まで察知出来るほどに。
だが、少年のスピードは予想を遥かに超えていた。
神の粋に達する走法、持ち得る剣術の粋を結集させた斬撃。
刹那の時間を見極める驚異の動体視力と猛獣の如き速度を持った少年は、今までよりもさらに強い鬼迫を放つ。
それが飽くなき闘いへの渇望ゆえの狂喜なのか、戦いの最中に考え事をしてしまった自分への怒りなのか、論には区別がつかなかった。
(こいつ―――――――さっきよりも速い!?)
≪知覚速度を125倍に再定義≫
さらに加速した攻撃にあわせて知覚速度を限界以上に引き上げる。
神速で迫る刀が論の右の肩口を狙う。
周囲の光景が、遅すぎるスローモーションのように流れ始める。
袈裟切りにされる寸前でそれを避けるが、コートは深く裂かれ、内側の防刃ジャケットも斬り落とされてしまう。
知覚と思考に身体がついていかない。
それなのに、I−ブレインの疲労率は瞬く間に上昇してゆく。
肉体はすでに限界を超え、身体の各所――――――いや、細胞レベルで悲鳴が上がっていた。
心臓は暴走寸前であり、止まりかねないほどの勢いで拍動している。
酸素が行き渡らないせいか思考力はどんどん低下し、目が白く霞む。
返す刀で第二撃目が放たれる。
切っ先が、まったく無駄のない完璧な軌跡を描いて喉へと突き出される。
それは神速で動いている中にあって、さらに速く打ち出されていた。
その神懸り的な一撃は論の動体視力をも凌駕し、ついには視界から剣先が消失する。
それを回避不能と判断するよりも速く、論はI−ブレインに決断を下した。
(――――――仕方がないッ!!)
≪絶対死・天樹 起動≫
『絶対死・天樹』。
それは、触れるもの全ての存在を分子レベル以下にまで分解し、存在そのものを否定する、『極限粒子移動サタン』の最終派生能力。
『情報解体』では解体できない人間を解体するために創られた、対人間用の極殺兵装。
世界を構成する情報の海の最下層から対象の存在を抹消する、窮極理不尽の代行者。
『雨の群雲』をクロス・カウンターの覚悟で握り締める。
刀同士のクロス・カウンターが意味するところは、
(同士討ちでも、構わない!)
いつの間にか、論も闘いの修羅道に身を浸していたのかもしれない。
端正なその顔には、今ここで果てることに悔いは無いと言わんばかりの凄絶な笑みが浮かんでいた。
――――――ドウブツは、人間の心理に敏感に反応する。
今までの闘いで最も速く、最も鋭い一撃が、論の喉元で止まった。
殺気を孕んだ風圧が、喉の薄皮を一枚裂いた。
血が滲み流れていくが、それだけだ。
同時に、少年の心臓目掛けて突き出そうとしていた『雨の群雲』も停止する。
危険を察知したのだろう。
少年が超人的な速度で後転しつつ、論から距離を置く。
訝しげに論の顔を見た少年が、目を全開にする。
論の口元には、三日月のような不敵な笑みがあったからだ。
≪予定位置に目標を確認。熱力学第三法則のサタン全開起動≫
作戦は見事に成功した。
「ッ! しまっ――――――」
しまった、と言う台詞を、少年は最後まで言えなかった。
少年を中心にして、大爆発が起こったからだ。
爆音と共にコンクリートの床や壁に大きな亀裂が走り、天井は軋んで粉塵を降らせた。
少年に勝つには、これしかなかった。
正面から挑んでも、戦闘技術では一進一退で決着がつかず、むしろ時間が経つごとに押されていた。
少年は本当に強かった。
だからこそ、その強さが仇となる。
何もこちらから相手の土俵に上がることはないのだ。
相手が動物並みの勘を持つというのなら、一つの仮説が立てられる。
すなわち、人の心理を読みすぎるという仮説。
事実、少年は自分を騙すつもりで決心した論の同士討ちの覚悟に反応して、反射的に距離を置いた。
あとは、あらかじめそこへ集めておいた空気中のメタン等の爆発ガスに着火するのみ。
一か八かの危険な賭けだったが、見事勝負に勝ったのだから、よしとしよう。
爆発の跡を見る。
全身から煙を吐き出しながら、それでも少年は片膝をつきながら身を起こした。
あの爆発で死に至らないのは異常だったが、少年の恐るべき身体能力を考えれば、丈夫なのも納得できる。
少年は身を起こそうと踏ん張るが、すぐに四つん這いになると、むせ返るような咳をした。
口から鮮血が吐き出され、床が紅く染まる。
「トドメを刺すべきか、肩を貸すべきか・・・。まあ、答えは決まっているんだが」
一人ごちて、今にも精根尽き果てそうな身体を叱咤して少年の元に行こうとして、
「待って、論!殺しちゃダメ!」
「ぐぉっ!?」
真横から猛烈なタックルを受けた。
腕に抱きつかれ、限界だった全身の筋肉が悲鳴をあげ、筋繊維が音を立てて千切れていくような錯覚を覚える。
「論、その人、きっと悪い人じゃないよ!だから、だから・・・・・!!」
「待て、落ち着け。頼むから落ち着いて――――――?」
ふと、論と少年の間に、少女が割って入った。
(・・・シュベール・・・・・?いや、違う)
シュベールに似た少女は両手を広げ、少年を護るように論の前に立ちはだかる。
その宝石のような水色の瞳には、滝になって零れ落ちる寸前の涙が溜まっている。
よく見ると、少女は身体をすくませ、その膝はがくがくと震えていた。
何を怖がっているのか、と不思議に思った論は、それが自分であることに気づいて軽いショックを受けた。
「・・・もう、十分でしょう?」
震える少女の声。
「・・・・・・・」
無言で両の刀を持ち上げる。
ヒナと少女の肩がビクリと揺れた。
「ヒナ、離れてくれ」
「論、お願いだから――――――」
「いいから。どいてくれ」
少しだけ温度を低くしたマスクでくぐもった声に、震えたヒナの身体が、ゆっくりと離れていく。
強張る少女の手がホルスターの拳銃に伸びる。
「――――――やめろ。そいつは、俺を殺さない」
少年が荒い息を吐きながら制止の声を上げた。
彼は自らが流した血液の中に沈みながら、自分をそのようにした論を信じ、笑みを浮かべていたのだ。
まったく大した奴だ、と論は初めて少年に感心した。
自分とほぼ同じくらいの年齢だろうに、その闘争能力と人知を超えた動物的な勘は、論も、論の知る誰よりも秀でている。
これでさらに頭が切れたなら、今頃地面に這いつくばっていたのは自分かもしれない。
「で、でも・・・・・!!」
少女が論を睨む。
未だに武器を持っているのだ。
当然と言えば当然だろう。
論は大きく溜息を吐くと、『菊一文字』と『雨の群雲』を同時にそれぞれの鞘に仕舞った。
「俺はそんなに凶暴に見えてたのか・・・・・ショックだ」
ヒナも少女も呆気に取られている。
なんとか片膝をついて起き上がった少年だけが、くつくつと笑っていた。
「え?でもさっき“離れていろ”って・・・・・」
「ヒナが腕を持ったままじゃあ、刀が仕舞えないじゃないか」
至極もっともな意見を言う。
途端に、早とちりをしていたと悟ったヒナの頬が紅色に染まっていく。
「わ、わ、私は、最初っから論のことを信じてましたよ!?」
「嘘だ。めちゃくちゃ怖がっていたじゃないか」
追求すると、ヒナは目を泳がせてたじろいだ。
「えと、えと、それは、えっとぉ・・・・・ふ、ふえ〜ん!」
遂に泣き出した。
まるで子供だ。
「だって、論が怖い顔して戦ってたからぁ・・・・・!!」
「あ〜、あれね・・・」
最後の逆転の芝居は、熱が入りすぎたらしい。
自分は役者の才能があるのかもしれない、と論はどうでもいいことを考えた。
「いや、あれは演技であってな・・・・・だから、その・・・・・って、なんでオレが悪いみたいな空気になってんだ?」
ぷっ、と少女が吹き出した。
少年も、もはや笑いを堪えようとはせず、遠慮なく肩を上下させて笑っている。
黒焦げになったフードと防寒マスクの下の顔をぶん殴ってやりたい気がした。
「おまえらなぁ・・・・・・ん?」
パサ、と論の頭に粉塵が落ちて来た。
気づけば、そこ等中から土と埃が舞い落ちてきている。
全員が不思議そうに辺りを見渡す中、壁、床、天井、柱に奔る亀裂が枝分かれしていく。
みしみし、という嫌な音を聞いた時、全員が顔を見合わせた。
「「「「――――――崩れる!?」」」」
その声を契機にしたかのように、ドームが一気に崩壊を始めた。
柱が崩れ、支えをなくした天井が壊れ落ち、その重みに耐え切れなくなった壁を押し潰していく。
「まずい!逃げ――――――」
論が疾駆しようとして――――――身体が傾いた。
雷に打たれたかのような鈍痛に貫かれ、身体が跳ね上がる。
心臓が早鐘のようにばくばくと拍動し、酸素を求めて喘ぐ呼吸を妨げる。
≪I−ブレイン、疲労蓄積率98.61%。強制停止行動に移行≫
論の全身の筋肉も、頼みの綱のI−ブレインも、すでに使い物にならなくなっていた。
脳細胞が残らず妬き切れてしまいそうなほどに、熱い。
頭蓋骨の内側から押し寄せる、皮膚をめくられるような激しい痛みに顔が引きつる。
「ガァッ・・・!!」
「論、しっかりして!」
ヒナが論の肩の下に自分の肩を入れて支える。
ヒナは魔法士だから身体能力増強を行えるが、少女はどうやら<騎士>系統の力は持っていないようだ。
それでも健気に、立ち上がることすら出来ない少年の身体を必死に持ち上げようとしている。
いくらヒナでも、男二人を持ち上げて走ることは難しい。
ごごご、と地響きに似た音を立てて天井が迫る。
時間がない。
「ヒ、ナ」
過呼吸症のように息を詰まらせながら、論がヒナに呟く。
震える指で50メートルほど離れた壁を指差す。
「あの部分の壁が、直接外に繋がっている。ヒナ、壊せるか・・・・・?」
最初に論がここを戦闘の舞台と定めた時に調べておいた部屋の構造。
I−ブレインの世界情報解析が正しければ、その壁を破壊すればそこは外だ。
「うん。出来ると思う。でも、二人はどうするの?」
動けない論と少年は、壁まで走ることは出来ない。
少年と視線が交差する。
激しい闘いで培われた二人の絆は、まだ保たれていた。
二人が頷き合う。
「お前たちだけでも、逃げろ。ヒナなら、その子を運んで逃げられる」
「な――――――!?」
「・・・・・!!」
ヒナが驚愕の声を上げる。
少女は口元を手で押さえると、この世の終わりのような顔をした。
「――――――いや!絶対いやだ!」
ヒナが声を張り上げ、論の胸倉を掴み、揺らす。
「一人にしないでって約束したよ!?約束破るの!?そんなの嫌だよ!絶対に離れない!」
「ヒナ、しかし、俺はもう動けないんだ。オレたちを運んでいたら、お前たちも死んでしまう。頼む。行ってくれ」
「いやぁ・・・ぜったいに、いやぁ・・・・・・!!」
昨夜のように、ヒナが論の胸に顔を押し付ける。
もう優しく抱いてやる力すら残されてはいないのが悔しかった。
立っているのも、もう限界だった。
膝が笑い、今にも2本の塩の柱となって崩れてしまいそうだ。
少女は、ただただ頭を振るうだけ。
嘘よ、嘘よ、と呟きながら、少年の目を見つめているだけだった。
少年は、優しそうな穏やかな瞳で少女の目を見返している。
どうしてそんな表情が出来るのか、聞いてみたかった。
ずぅん、と遠雷に似た轟音が大きく響き渡った。
別れの時が近い。
「さあ――――――行くんだ、ヒナ」
子供が駄々をこねるように、頭を振って拒否する。
「もともと、俺たちのせいでこうなったんだ。お前を巻き込むわけには――――――」
「巻き込むなんて・・・・・」
ヒナが小さく呟いた。
「え?」
「巻き込むだなんて、言わないでよ!ずっと一緒って約束したでしょ!私も残る!」
「ヒナ・・・・・!!」
堰を切ったかのようにヒナの瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
論にはヒナを引き剥がす力さえ残されてはいない。
ガクリと片膝がついに折れ、地に膝を突く。
よもやこんな別れになるとは思っていなかったが、ヒナを放って闘いに身を灼いた報いなのかもしれない。
どう説得しようかと働かない頭を回転させる。
「よっこらせっと・・・・・」
唐突に、身体を小刻みに震えさせながら、少年が立ち上がった。
今度は3人が呆気に取られる。
「おい、大丈夫なのか?」
開口一番、論が尋ねる。
少年は苦痛に顔を歪ませ、ぎこちない動きで腕を回しながら、
「大丈夫なわけ、ないだろ。死にそうなほど痛いし、つらいんだけどな」
と言うと、呆然とする少女の頭に手を置いて、ガシガシと髪を掻き乱した。
「なんか、お前ら訳ありっぽいしな。俺だってまだやり残したこともある。それに、責任は俺にもあるんだ」
床に転がっていた少年の刀をひょいと足先で拾い上げ、柄を握る。
「ちょっとくらい無理をしても、死にはしないだろう。・・・多分な」
唖然とする論とヒナに向かってウインク。
「本当に・・・大した奴だよ、お前は」
論が素直な感想を漏らす。
少年が差し伸べた手を握り、なんとか立ち上がる。
もう片方の手を握るのは、紅葉のように小さく暖かい手。
ヒナの手だ。
少年が、少女に肩を借りる。
騎士剣の補助を持ってしても歩けないということは、彼も相当のダメージなのだろう。
崩壊する暗闇の中を、二人三脚のようにして少年と少女の二組が疾駆する。
ともすれば気絶してしまいそうな意識を奮い立たせながら、目の前だけを凝視する。
崩れ落ちてくる残骸を回避しつつ、目的の壁まで辿り着く。
「ヒナ、頼む」
ヒナが頷き、双剣を壁に突き立てる。
情報解体を行えば、あとはそこに空いた穴に飛び込むだけ。
しかし。
「え――――――!?」
ヒナの驚嘆の声とともに、突きたてたはずの双剣が壁に弾かれる。
壁に青白く浮かび上がる、複雑な文様。
その壁には、情報処理が施されていたのだ。
この“町”で内戦が行われたとき、ここには司令部か何かが置かれていたのだろう。
薄い壁に何らかの対策をするのは、考えてみれば当然だった。
「そんな、情報解体できない・・・!!」
ヒナの肌が異常なほどに白くなり、急激に精気を失っていく。
無慈悲で情け容赦ない怒涛の質量が4人の頭上を覆い尽くした。
ここまでか、と絶望の淵を覗き込みかける。
「――――――ちょっと退いてくれ」
少年がヒナの肩を引いた。
そして―――――――――――
「おぉおおぉおおぉおおお!!」
鼓膜を突き破るかのような咆哮。
胸元まで下げた右腕を弓を引き絞るように限界まで引く。
肉と神経が千切れ、骨が軋む不快な音がこちらにまで聞こえてくる。
引き絞られた矢を放つように、筋肉に弾かれた拳が放たれた。
大気を震えさせ、獣のような雄叫びを引き連れた破壊の拳が壁を穿ち―――――――――――
+ + + + + +
突然、崩れゆくドームの壁の一部が内部から爆砕した。
そこから、4人の少年少女たちが飛び出してくる。
それを見計らっていたかのように、ドームは“ドーム”としての形状を崩し終えた。
ヒナが急いで起き上がる。
慌てて周囲を見渡すが、論の姿はどこにもない。
「論―――――――論、どこ!?」
「ここだ」
どこか憮然とした声が聞こえた。
すぐ近くから聞こえたはずなのに、姿が見えないことにヒナの焦りは加速する。
「どこなの!?」
少年と少女はぽかんとした顔でヒナを見ていた。
「ヒナ、お前の下だ」
「え――――!?」
ヒナが自分の足元を見る。
踏まれた迷彩服が、仰向けに雪に深く埋まっていた。
ヒナが慌てて飛び退く。
「ご、ごめんなさい・・・・・!!」
申し訳なさそうにしゅんとするヒナに、ついに少年と少女が笑い転げる。
むすっとした顔で、顔中雪だらけの論がよろりと起き上がる。
なんとも間の抜けた登場である。
乱れきった鼓動を意志の力で強引に制御し、身体の隅々に酸素と血液を循環させる。
疲れきった身体に冷たい雪は心地よかったが、異性に踏まれることを快感とする趣味は生憎と持ち合わせてはいない。
「お前、尻に敷かれるタイプだな」
「・・・黙ってろ」
腹を抱えて笑う黒焦げの少年に一喝する。
それでも、少年は悪びれる様子も無くひーひーと肩で息をして笑っている。
先ほどまで命がけの死闘を繰り広げていたことを微塵も感じさせないほどの間の抜けた雰囲気だ。
溜息を吐いて、ふと、自分たちがなんで戦う羽目になったのかを思い出した。
「結局、お前は何者なんだ?」
論の質問に、少年はパウチから包帯を取り出しながらあっさりと、
「通りかかっただけさ。何者でもない」
あっけらかんと答える。
なんとなくそうではないかと予想していたが、これで死に掛けたのだから、人生は何が起こるかわからないものだ。
「じゃあ、お前は何者なんだ」
少年の軽い質問に、論も
「オレたちは墓参りに来ただけだ。お前たちとは初対面も甚だしい」
と、わざとらしく溜息をついて答える。
その答えに、挙措を失った少女ががっくりと膝を突いて脱力した。
「あ、危うく死に掛けたっていうのに・・・・・・」
論もまったくの同意権だったが、賛同する気力すらなかった。
「そうだ。ヒナ、だったっけか?」
満身創痍のはずの少年が平然とヒナに向き直る。
突然話しかけられたヒナが、ふぇ?と首を傾げた。
「笑って悪かった。お似合いだよ、お前等」
途端に、ヒナの顔がぱぁっと輝く。
「そうですよね!そうですよね!」
弾むように言って、がくがくと論の腕を揺らした。
その度に脳天を貫く激痛がびしびしと身体中に響くが、抗議するとさらに揺らされそうなので黙っておくことにした。
(そういえば・・・・・)
「・・・なぁ、あの墓はオレたちの知り合いの妹の墓なんだが・・・・・知っているのか?」
シュベールの妹の眠る墓を指差す。
巨大な建造物の崩壊にも関わらず、墓は倒壊していない。
この二人は、シュベールの墓の前で何かをしていた。
一体何を・・・・・?
「いや。そうか、女の墓だったのか。飾り気が無いからてっきり男の墓かと―――――」
は?と論が思わず呆けた声を上げる。
「待て待て待て。じゃあ、お前たちは、あそこで何をしていたんだ?」
少年と少女は不思議そうに互いの顔を見合わせる。
「他人の墓に勝手に祈りを捧げたら悪いっていう法律があるの?」
少女がツインテールを揺らして問うような眼差しで首を傾げる。
(―――――――――ああ、なるほどね)
今度こそ本当に、論は深い深い溜息を吐いた。
+ + + + + +
少年が、白いカバーで隠していたオートバイに跨る。
大きなサスペンションと流れる黒い風の塗装が特徴的な大型のオフロードバイクだ。
特殊な形状をしたタイヤと、スキー板を前輪後輪の両サイドに付けたような雪原踏破用の装備を施されている。
排気量は6,500CCと少年は言っていたが、冗談だと思いたかった。
しかし、一度少年がグリップを捻ればその希望は見事に撃ち砕かれた。
大気を揺るがせ腹の底に響くほどの爆音に、ヒナがひゃっと声を上げる。
戦闘からわずか30分で、少年は体力を回復していた。
『俺は怪我が治るのが早いんだ』と言っていたが、それもまた冗談だと思いたかった。
論は、回復には到底至っていない。
未だヒナの肩を借りなければ満足に歩けない論とは対照的に、少年はバイクの調子を身体で感じ取りながら異常を点検していた。
少女はというと、サイドカーのトランクに慣れた手つきで荷物を詰め込んでいる。
よし、と頷いてから、少年が黒焦げのコートを脱ぐ。
いかにも丈夫そうな黒色のラインディングギアがぎちぎちと音を鳴らして現れる。
無茶をした右腕は痛々しいほどに皮膚が破れ筋組織が覗いていて、どこからどう見ても治っているようには見えなかったが少年はそれを気にする様子はない。
流線型のフルフェイスヘルメットを被り、首の固定具を締めて準備完了。
「じゃあな、“強敵”」
論が拳を突き出す。
驚いた少年が、嬉しそうに論の拳に自分の拳を突き合わせる。
「ああ!さらばだ、“強敵”!」
ヒナとシュベールに似た少女も、にこりと笑いあう。
ヒナとシュベールが笑い会っているように見えて、論はいつの間にか微笑みを浮かべていた。
いつの間に仲良くなったのかは知らないが、いいことだ。
拳が離れる。
「お前は強い。きっとまたどこかで会えるだろう」
「同感だ。それまで死ぬなよ?」
論と少年が互いに視線を交わらせる。
またどこかで会う、という思いは、確信に近かった。
少年が、フェイスカバーの内側からヒナに向けてウインクする。
ヒナがウインクを返し、それで会話は終わった。
後輪が後塵を巻きたてるように雪を吹き上げる。
4ストローク並列6気筒の怪物エンジンが爆音を残し、バイクは一瞬にして論たちの視界から遠ざかる。
少年も少女も振り返ることはなく、論とヒナは彼らの姿が見えなくなるまで見送っていた。
「―――――――墓参り、するか?」
「・・・・・うん」
墓参りに来ただけのはずなのに、ずいぶんとひどい目にあった。
この墓の前に来るまでにかなりの時間をかけたが、それだけの価値のある出会いだったと思えば安いものだ。
論とヒナが墓の前で手を合わせる。
一分の黙祷を捧げると、ヒナが腰のリュックから小さな壷を取り出した。
「シュベール・・・・・妹と一緒に、オレたちを見守っていてくれ」
「シュベール。天国で、二人で仲良く暮らしてね」
シュベールの骨を収めた壷にそれぞれの思いを語ると、二人は一緒に墓石を持ち上げ始める。
ヒナの頬を涙が伝い、錆びた鉄の墓に幾つも落ちる。
ヒナに死体を見せたくはなかったが、雪を掘り返し、論が白い布で幾重にも包まれた遺骸を抱き上げる。
凍りついた小さな遺骸の上に、ヒナが震える手でそっと壷を載せる。
一緒に埋葬されてある血に汚れた猫のぬいぐるみの土を落とし、彼女とともに再び埋葬する。
そして、全てを終えた。
黙々として作業を終えた論が、フードを脱ぎ捨て、ぼろぼろの防寒マスクとコートを脱ぐ。
精悍な顔つきに、大きな黒い双眸。
鋭角的な輪郭が厳格な雰囲気を醸し出す。
ヒナが『同調』で二人の周囲を暖かくしてくれているので、寒くはない。
二人の間に流れる、長い沈黙。
「あ!」
と、唐突にヒナが声を上げた。
「どうした?ヒナ」
「私たち、あの人たちの名前聞いてませんでした。男の人のほうは、顔を見てないし・・・・・」
「なんだ。そんなことか」
論は興味なさそうに応える。
そんなこととはなんですか、とヒナがむっとする。
「大丈夫。会えばわかるよ。必ずな」
そういえば少年の名前も顔もわからなかったが、対峙した時に感じたあの闘争本能ははっきりと脳裏に刻まれている。
こと闘争における少年の直感・動作は、研ぎ澄まされているという生半可なレベルではない。
たとえ何年経とうとも、再び対峙すれば、それだけで相手が何者か理解できるだろう。
自己紹介はその時にすればいい。
今は、それよりも大事なことがある。
「―――――――なあ、ヒナ。次はどこに行こうか?」
自分たちに戻るところなどない。
だが、恐れはなかった。
恐れる理由も無かった。
無慈悲な運命に翻弄されつつも、自分たちは必死に足掻いてみせる。
あの少年のように、最後の瞬間まで笑って迎えられるように。
ヒナが、幸せそうに微笑んだ。
「論と一緒なら、どこでも」
望んでいた通りの答えに、論もつられて微笑む。
(オレの在るべき場所は、ヒナの隣にある)
大切な者を護る力が自分にはある。
それは物凄く幸せなことなのだろう。
どちらからともなく握った手から、無垢なまでの暖かさが互いの身体に流れ込む。
二人の影が重なる。
いつも、いつも。
ずっと、ずっと。
命が尽きるまで。
魂が朽ちるまで。
時が果てるまで。
いつまでも、いつまでも。
永遠に、ずっと一緒に。
死が互いを分かとうとも、永遠に離れないと誓って。
その光景を二人の少女が背後からずっと見守っていたが、論たちが気づくことはなかった。
+ + + + + +
「ねえ、零!」
サイドカーで縮こまる少女が、運転する少年に大声で話しかけた。
気づいた少年がゆっくりとブレーキをかけて停止する。
「どうしたんだ、ナナ」
零と呼ばれた少年がフェイスカバーを上げる。
精悍な顔つきに、大きな黒い双眸。
野性味と洗練味が同居する、鋭い目鼻立ち。
「そういえば私たち、自己紹介もしてないよ?また会った時にわからないんじゃない?」
「ああ、そういえば、そうだな。まあ、雰囲気でわかるだろう」
論、という名の少年。
あれほどまでに優れた練磨の戦士とは、残りの人生の中でも会えるか会えないかわからない。
細胞の一つ一つが激しく燃焼し、身体は未だに熱した鉄の如く熱を帯びている。
実にいい死闘をさせてくれた。
たとえ何年経とうとも、再び対峙すれば、それだけで相手が何者か理解できるだろう。
「・・・どことなく、あいつ、天樹錬に似てたな」
ふと、思いついたことを口にする。
<悪魔使い>、天樹錬。
自分の弟にあたる、世界でも有名な魔法士。
「ええ〜!?」
途端に、ナナが柳眉をハの字にして非難の声を上げる。
「いや、『どこが?』と聞かれれば答えられないんだが、なんとなくな」
「全然似てないよ!さっきの論は、クール・イズ・俺!って感じだったじゃん!確かに複数の能力を同時に操ってたけど、あんなヘナチョコとは比べ物にならないよ!第一、」
「第一?」
「論が天樹錬にそっくりだったら、零ともそっくりってことになるじゃん!」
「まあ、世界には同じ顔が3人いると言うしなぁ・・・・・」
「え〜?嘘臭い!ありえないよ」
そこまで否定されては、そうだろうなと納得するしかない。
零はカバーを下げるとグリップを捻った。
自己紹介は今度会った時にすればいい。
その時は、絶対に勝ってみせる。
決意を胸に、零とナナを乗せたバイクは猛吹雪の雪原を突き進んでいった。
あり得ないと言えば、ナナもおかしな光景を目にしてしまっていた。
幻覚であることに間違いは無いだろうが、それにしては妙にはっきりとしていた。
サイドカーのミラーに映る、こちらを見送る論とヒナ。
彼らの背後に、水色のツインテールの少女とボーイッシュヘアーの幼い少女が見えたのだ。
どこにでもあるありふれたセーターとスカートに身を包んだ少女たちは、論とヒナの背中を愛でるように微笑んで見守っていた。
(なんだったんだろ、あれ・・・・・。まっ、いいか)
内心で呟くと、ナナは曇ったバックミラーをコートの袖で拭く。
奇跡の痕跡は、ナナの胸の中に消えた。
FIN
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