参戦当時のシティ・クスコ自治軍では、前々から進めていたある計画がようやく軌道に乗ってきたばかりの頃合だった。開戦によって目的が大きく変更されはしたものの、その計画の有用性には期待が寄せられていた。 『大陸横断輸送ライン』。南アメリカ大陸の縦横にリニアを走らせ、多角的な補給路を確保しようとする大事業。
当初はシティが独占する長距離公共交通機関として利用するはずだったそのラインは、開戦と同時に資金不足で計画が中座したように偽装された。
もちろんその裏では情報制御理論を利用した掘削技術が続々と開発されていたのだが、圧力によって自治軍の参戦が決定したことに焦ったシティ上層部は、手に入れたそのノウハウをついにI-ブレインへ応用した。炎使いを生きた掘削機として事業に投入することで、計画全体の簡略化を謀ろうとしたのだ。
しかしそのうち、簡略化の要となる炎使いが戦力にもなることに気付いた上層部は、激戦区のアフリカに掘削部隊の一部を割くことにした。そうすることで、参戦をしぶっているかのようにみえるクスコ市の他国への意思表示になると考えてのことだった。
そうして派遣されたのが、魔法士部隊一小隊。高位の炎使いのみで構成された、特務班だ。
だから、まったく別系統の魔法士である祐一が彼女のことを知ったのは、例によって雪が彼女と仲良くなったからだった。
「あ、祐一」
コーヒーを片手に物思いに沈んでいた祐一は顔を上げ、そこに見知った数人の魔法士の姿を見つける。女性ばかりだ。
「雪、マリア……それに、戻ってきたのか」
言われて、彼女はにっこりと微笑み栗色の髪を揺らす。
「はい、本日付けで再転属になりました。よろしくお願い致しますね、祐一様」
「……相変わらずだな」
人の名前を様付けで呼ぶ魔法士というのは珍しい。もちろんそれは性格の問題であるのだが、少なくともここまで深窓の令嬢という姿が板についている魔法士など祐一は聞いたことが無かった。目の前の、彼女以外は。
そんなことを考えている祐一の腕に、雪がしがみつく。
「ね、祐一はどう思う?紅茶にはお砂糖が二個よね?」
その目が全力で肯定しろと言っている。しかし雪には悪いが、祐一は自分のポリシーを曲げるわけにはいかない。答えようと口を開いて、その前に二人分の声が重なる。
「紅茶にはもちろん、はちみつをたっぷりでしょう。こんなの当然よね祐一?」
「雪様とマリア様は邪道でございます。お紅茶はやはり一滴のメープルシロップでしか真の魅力を引き出せませんよ、祐一様」
……。
ぽとりと落とした二粒の正方形は撹拌によって姿を消し、最後には溶け残ったほのかな甘みを楽しむことができる――砂糖を二個。
甘い香りと共に容器からとろり、黄金色。それはカップの底へ落ちて陽炎のようにゆらめき、独特の風味をかもし出す――はちみつをたっぷり。
優しい味と多くのミネラル分をその身に宿す、琥珀の色の果糖蜜。紅茶をほんのわずかに引き立てる、貴婦人の甘い手助け――メープルシロップを一滴。
……なるほど。
それぞれの意見が、目の前の姦しい集団の一人一人を、よく表しているように思えた。
しかし。
心中で嘆息する。これほどの魔法士たちが、こんな瑣末な物理法則すら理解していないとは。砂糖にはちみつ、メープルシロップだと?
……甘いな。
祐一はすっと目を細め、高らかに宣言する。
それは時に甘く、時に厳しく、求める者を静かに支える。芳香に引かれ、口をつけるたび夢から覚めて。旅人が持つカップの中で、揺れているのは黒き水面――。
「俺は、紅茶よりコーヒーが良い」
第一級能力者の称号を持つ魔法士たちが、そろって奇妙な顔をした。
それはまだ、彼女たちが、笑い方を忘れる前のことだった。
Interval -ホーンテッド・マウンテン-
――地熱発電プラントの調査と、妨害工作の破壊。
それは、南アメリカのとある村からの依頼だった。プラント自体にはかねてより目をつけていたものの、戦時中に軍が利用していたおかげで大量の対人兵器が設置されていて、手も足も出せないということだった。
「昔、俺が世話になっていたルートからの依頼でな。危険はないはずだが……」
困ったような顔をして言う祐一に、ディーは二つ返事を返した。あの日、マサチューセッツを出た日以来世話になりっぱなしの祐一に、少しでも返せるものがあればそうするつもりだった。
「すまない。仕事が終れば、そのまま山脈をこえるが……それでいいな?」
もちろんです。
答えようとして、ディーはその問いが自分だけに向けられたものではないことに気付く。
カウンターテーブルの自分と祐一との間に、小さなポニーテールがゆれていた。湯気をくゆらせる紅茶を手に持って、悲しい思いに沈んでいるような少女の姿。
「……セラ、」
その瞬間。
びくりと顔を上げた少女は、手に持っていたカップを落としてしまった。とっくにぬるくなっていた紅茶が席にぶちまけられ、プラスチックのカップがからからと音を立てて転がる。
「ご、ごめんなさい――!」
突然スイッチが入ったかのように動きだしたセラはしかし、おろおろとするばかりで自分でも何が起こったのかを理解していないようだった。祐一がタオルを借りるために席を立ち、ディーは動きの止まったカップを取り上げて、テーブルの上に置く。
「ごめんなさい、ディ、ディー君、祐一さん、」
「大丈夫だから、セラ。テーブルから離れて、服についちゃうよ」
言われてセラはハッとしたようにカウンターから身を離し、それを見計らってディーは切り出す。セラがなにかを言おうとする、その前に。
「それでね、セラ。祐一さんとも話してたんだけど、この町の人たちからの依頼で、すぐそこの地熱発電プラントが使えるかどうかを確認しにいかなくちゃいけないんだ。セラは、外で待ってていいから――」
「だ、ダメです!」
思わず大きな声で言ってしまったのに気付き、セラは少々声を小さくする。
「ダメです、わたしもいきます。ディー君と祐一さんだけ行かせるなんてそんなの、」
「わかったよ。でもそのかわり、僕か祐一さんの側から離れちゃだめだからね?」
セラは少しうつむき、ネジが切れる寸前の人形のように呟く。
「はい……」
いつもなら、いつものセラならば、ここでは「わたし、子供じゃないです」と眉をつりあげるところだ。それなのに何も言わず黙り込むということは、おそらくまた考えていたのだろう。ほんの1週間前に起こった、あの一連の事件のことを。
ぼくは……。
思考の迷宮へと踏みこみそうになる心を、全力で抑えこむ。
あの日のことが蘇る。風の吹きすさぶ船上で交わした、一つの小さな、でも絶対に譲れない誓い。
――その日まで、僕が守るよ
生きていくということ。
罪も、痛みも、全てを背負って……生きていく、ということ。
その言葉、その意味……。
結局、ふきんを持った祐一が戻って来るまで、ディーはただ立ち尽くしていることしかできなかった。
先ず祐一が全体を探り、あとに続くディーとセラが指示を受けて対人兵器を次々と破壊してゆく。騎士剣が荷電粒子砲の自動銃座を消し飛ばし、威力を落としたLanceの光条が闇を貫いて、壁に刻まれた論理回路を的確に破壊する。
ひときわ広い資材搬入路の銃座をすべて情報解体してディーが元の場所へ戻ると、セラの横に祐一が立っていた。発光素子に照らされてはいるものの黒衣を着た影がヌッと立っているようなイメージを浮かべてしまって、ディーは反射的に怯える自分が悲しかった。怖いものは怖い。
「今ので終りだ。つきあわせてすまなかったな」
そう言って渡されたものは、ディーも数回しか見たことの無い、スタンダードな板チョコ。……シティの無い南アメリカで、これほど高価で希少なものを祐一はどこで手にいれたのか。
「ありがとうございます」
素直に受けとって小さく割り、口に含む。苦く甘い味が広がった。見れば、セラも同じ包みを手にしている。
「報酬のようなものだ、気にするな……それより」
祐一が『紅蓮』の柄をこちらに差し出した。ディーが板チョコの包みを持っていないほうの手を伸ばし、セラもそれにならう。
頭の中に「LINK」の文字が浮かびあがり、そのウィンドウに一枚の地図が現れた。このプラントのおおまかな構造を記した地図だ。
「現在地はわかるな?ここから、このルートを通って地上へ出る」
道順が示されて行き、最後に「OUT」の文字の場所へとたどり着く。一番短いルートだが、間で何層もの隔壁を解除しなければならないので、「自己領域」で一息に地上へ出ることは適わない。200桁を超えるパスコードの入力自体はI-ブレインを使えばすぐに終るが、隔壁が開くのを「自己領域」を展開しながら待っていては、時間単位が違いすぎていつまでも外に出ることができないからだ。
「わかりました」
答えたディーに祐一はひとつ頷いて、I-ブレインのリンクを途絶させた。二人が騎士剣から手を離すのを待って鞘に収め、
「少し、辺りを見てくる」
「はい。ここにいます」
黒い姿が黒に呑まれ、遠くでどこかの部屋のドアを閉じる音が聞こえた。ディーはチョコを口の中で転がして、セラに少しあげよう、セラには元気になってほしいから、と理由をつけて振り向き、そこに、
床に這いつくばるセラの姿を見つけた。
「…………」
頬を床に押しつけて、何かに聞き耳をたてているようだった。なんと声をかければ良いのかわからず、ディーは固まる。
「…………」
「……あ」
こちらの視線に気付いたらしいセラが、かすかに頬を染めながらむくりと起きあがる。
「え、えっと、音が聞こえたです。たぶん、ここの下から……」
「え……どんな音?」
「えっと……」
その時。
今度はディーにも聞こえた。ガンガンガチャガチャ、というような、物と物がぶつかり合う音。小さいが、はっきりと耳に聞こえる。
なぜいままで自分には聞き取れなかったのかと内心首をひねりながら、ディーは頷いた。「これだね?」
「はい」
チョコの残りをしまいつつセラがもう一度床に耳をつけようとするのを手で制して、ディーはチタン合金の床に引きぬいた『陰』の切っ先をつきたてた。情報解体の要領で情報の海を探り、薄い金属板一枚隔てた向こうにかなり広い幅を持つ空洞があることを知る。こんな通路は地図にはなかった。
「これ……隠し通路、かな?」
「この下に梯子があるんです。でも、それがどこに向かっているのかはわからないです……」
……そうだ。別にわざわざ陰を抜かなくても、空間を直接感知できるセラに聞けばそれで事足りることだった。
ディーはセラの顔をちらりと見て、特に気にしていないようなのを確認して胸を撫で下ろし、状況を考える。
もちろんこれは仕事なのだし、自分たちはチョコレートという報酬をもらってしまったのだから、働きは落ち度の無いようにしなければならない。この下にあった中性子爆弾を見逃したせいで祐一に非が向けられるのは、ディーとしては歓迎できない未来だ。
「僕、ここを見てくるよ。セラは――」
「わたしも一緒にいきます!」
あわてて服のすそを掴んでくるその手を握り、ディーはセラに「わかった。でもI-ブレインは戦闘起動しておいて」と言ってもう一方の手に持つ『陰』に意識を集中した。チタン合金の一部を情報解体し、薄い床材に人が通れるほどの穴をあける。その向こうに梯子のようなものを見つけ、それに手をかけようとして、
(高密度情報制御を感知)
ふわりと、重力が消える感触を感じた。
「ありがと、セラ」
「はいです」
ディーは『陰』を持った左腕を一閃させ、二人がらくらく通れるほどの穴をあける。すぐに、セラがとなりに並んだ。
ディーは身体能力制御を起動させて警戒しつつ、セラの重力制御によって縦穴を下りて行く。服につけた発光素子の照らす穏やかな光が、梯子の赤錆を暗闇にうかびあがらせていた。
いつまでも見えない梯子の底に不安になり、どのくらい深いの?と聞こうとして、
……また、聞こえた。
「ディー君――」「どう?まだ底が見えない?」
セラはとまどうように形の良い眉を寄せる。「いえ……それが……」
その瞬間。
突然地に足がつくのを、ディーは感じた。驚いてたたらを踏み、低重力の反動で飛びあがるのをセラに引き戻される。
「おかしいです。さっきまで……なかったのに」
「え?」
ディーは周囲へI-ブレインの目を向けた。広い長方形の部屋の両端に、出入り口らしきドアがついている。見上げれば、ぽっかりと開いた縦穴の出口があった。いつの間に部屋へ入ったのだろうか。
「この部屋……」
セラが呟いて、体にかかっていた重力が消えた。不安そうな顔でこちらを見るセラに、ディーは「どうしたの?」と問う。
「わたし、いま、I-ブレイン止めてます」
「……え?」
自分のI-ブレインで確認して、一人分の魔法士の演算――セラの重力制御の反応が、消えていることに気付く。それはつまり。
この壁の向こうに論理回路があって、それが重力を中和しているのだ。
この部屋……何?
ディーはセラに声をかけて、ともかく一方のドアのほうへと歩き出した。念のため騎士剣は両手に持ち、I-ブレインも全力起動させて、奇襲に対応できるようにしておく。
前にたつと、鉛色のドアが開く。その向こう――。
「え」
背後で、セラの息を呑む音。そしてそれをかき消すほどの、ガンガンガチャガチャという、うるさい音。
景色が一変していた。
開けた先の長方形の部屋、煌煌と明りを放つ発光素子の下に、濃いグレーの迷彩服を着込んだ何人もの人間がいた。誰もがすっぽりと顔を隠すフードを被り、自分たちの手元――積み上げた小さなコンテナを整理する作業――に没頭している。こちらには気付いていないようだった。濃いグレーの迷彩服に腕章を認め、それをI-ブレインで読み取って、ディーは「シティ・クスコ自治軍」、とつぶやく。
現存するシティは6つ、ロンドン、ニューデリー、ベルリン、シンガポール、そしてモスクワ、マサチューセッツ。数ヶ月前に神戸が消えて、今世界中で機能しているシティはこれで全部のはずだった。
ということは、つまり……シティ残党軍。
ぐい、と服のすそを握られる。振り向くと、ディーの背後でセラが青い顔をして立っていた。大丈夫だよ、というように微笑み、ディーは意を決してすぐ近くで作業をしている男に声をかける。
「あの、突然お邪魔してすみません。僕たち、このプラントの調査をしていて、迷ってしまったのですが」
ディーの声に、男は顔も上げない。声が小さかったかと考え直して、もう一度、今度はよく聞こえるように言いなおす。それでも、男はこちらを見もしない。
困ったディーはどうしようかと視線を巡らせ、
「――あら?」
作業に没頭する人々の中の一人が、こちらに気付いて顔を向けたのを見た。
「お二方は……、ここでなにをされているのですか?」
その女は、目深にかぶっていたフードを上げて、顔を見せた。
肉体労働の場に似合わない、端麗な西洋系の顔立ち。溢れるような、ウェーブのかかった茶色の髪。
セラの服を掴む力が心なしか強くなり、ディーはその手をとって握ってやる。少女の小さな手はかすかに震えていた。セラの母親――マリアと、同年代の女性だった。ディーは一刻も速く会話をしなければと、いそいで口を開く。
「僕たち、ええと、このプラントの調査をしていて、それで……」
「ああ、わかりました。そこの彼のお知り合いですね?」
背後を指され、ディーは振りかえった。
『紅蓮』を携えた黒衣の騎士が、呆けたように立っているのを見つけた。
ここはうるさいので、あちらの部屋へ参りましょう。そう言って最初の何も無い部屋へ戻った三人は、それぞれに自己紹介をした。
難民の兄妹と、その父親。順番に偽名を名乗る三人に女性は微笑み、「シティ・クスコ自治軍、シャノン・ブレヴァル中佐です。ブレヴァル中佐、とお呼びくださいね」と挨拶する。自分たちは偽名を使っているのに、と居心地の悪くなってきたディーにかわって祐一が固い声で質問をした。
「ブレヴァル中佐。ここは、なんだ」
探りも意思表示もなく、いきなり核心をついた質問。ディーは思わず祐一のほうを見て、何も言うな、というような視線を受ける。
「はい。ここは、戦時中にクスコ自治軍が山脈の下で秘密裏に引いた、物資輸送用のライン……そのリニア車両の中です。地熱発電プラントからの電力供給で、まだ動いているんです」
「ディー、車両を見て乗りこんだのか?」
祐一がこちらに尋ねる。ディーは説明をしようとして天井を見上げ、穴があった場所をいつのまにか覆っている強化ガラスの向こうの闇を指差した。
「セラが僕に教えてくれて、それで床の向こう側に、地図にない通路があるのに気がついたんです……僕たちが下りてきたときにはあそこが開いていました」
同じか、と呟いた祐一にブレヴァル中佐が相槌を打つ。
「それではやはり、先ほどのステーションでの停車中にお三方はお乗のりになったのですね。ハッチが閉じたのはそこが最後ですから」
……え?
「……待て、ブレヴァル中佐」
なんでしょう、と小首をかしげるブレヴァル中佐に、祐一が問いをぶつける。
「このリニア――まさか、動いているのか?」
「はい。それほど速くはありませんが、一応。いまごろは山脈をこえているところです」
予想外の答えに、ディーは面食らう。一歩間違えれば、祐一と引き離されていたところだったのだ。
「……そうか。……こちらの想定外のことだったので、次のステーションに着くところで下してもらいたいのだが」
「この輸送ラインの存在を内密にしていただけるのであれば、かまいませんよ。よろしければ、ご希望のステーションまでお送りいたしますが?」
ディーですらできすていると思うほどの話に、祐一が眉をひそめる。
「秘匿に関してはもちろんだが……しかし、いいのか?簡単に予定を変更できるものでもないだろう」
「輸送予定は特に詰まってはいませんし、地上のステーションに人を上げておかなかったのも、こちらのミスですから。どちらの方面へ参りましょうか?」
目的地を問うブレヴァル中佐に祐一が答え、少し待っていてください、と言ってブレヴァル中佐は元来たほうの部屋へと引き返した。まだコンテナの整理でもしているのか、ガンガンガチャガチャという音が少しだけ大きくなって、隣の車両へのドアが閉じると同時に元に戻る。一応警戒は解かず、それでもディーはどこかほっとしていた。祐一が軽く息をついて、こちらに目を向ける。
「――セラ。乗り物酔いか?」
……え。
見れば、青い顔をしたセラがいた。
ディーの服を必死に――爪が食いこむほど握り、小刻みに体を震わせている。
「お前は大丈夫だな」
ディーに確認をとってから祐一はセラのほうへと移動し、背中をさすりながら耳元で何事かを囁く。セラの震えが徐々に収まって行き、ゆっくりと指が解けてゆく。ディーはそれを見ながら、この人には負けるな、と心の底から思った。
「しかし、危うくはぐれてしまうところだったな」
かがめていた体を起こして、祐一が言う。そう、本当に危なかった。そのことしか頭に無かったディーは、祐一の次の言葉の理解が一瞬遅れた。
「だが、ディー。隠し通路を見つけるだけならともかく、勝手にそこを下りるというのは感心しない……もっとも、俺も他人のことは言えないが」
祐一は続ける。
「前にも言ったな。『I-ブレインと騎士剣さえあればどんな状況でも切りぬけることができるだろうが、他の者はそうではない』……それは、たとえ魔法士でも、同じことだ」
「……はい」
そう……その通りだ。危険なことはわかっていたはずなのに、その場に流されて同行を許可してしまった自分に非がある。本当にセラのことを守りたいのなら、こんなことではいけない。
「え、えっと……祐一さん、ディー君は」
祐一は、そのセラの慌てたような言葉を遮るように首をふる。
「セラもだ。光使いの仕事の第一は、騎士の言葉に必ず従うことだ。そうでなければ守りきれないし、shieldも騎士や人形使い相手では何の意味もない。気持ちはわかるが……これだけは、忘れないでくれ」
「はい……です……」
沈んだ声を返すセラを見て祐一は、説教は終りだ、とつぶやいた。壁によりかかって楽にするその姿からは、一瞬前までの真剣さはなく、すっかりいつも通りの祐一だ。それを見て、ふと思いつく。
「祐一さん」なんだ、とこちらを見る大戦の英雄に、ディーは質問する。「シティ・クスコって、いつ頃なくなったんですか?」
祐一は記憶を掘り出すように一瞬目をさまよわせ、すぐに答えた。「ああ……たしか、開戦後しばらくして……二一八六年の今ごろだったな」
戦時中は神戸と同じ勢力の末席として、クスコ自治軍の名もあったらしい。高位の炎使いを何名か輩出したものの軍自体は大した戦功を上げられず、敵対勢力の猛攻を受けて、最後には市民数千万名と敵軍の大部分を巻き添えにして核融合炉を暴走させた。
「じゃあ、ここの人たちは」
「その時にたまたまシティを離れていた部隊、だろうな。戦時中はアフリカ大陸の激戦区にもっとも兵が集まっていたから、クスコも他国との同盟を維持するために遠征部隊を出していたはずだ」
「その通りですよ」
祐一が話している間にドアが開いて、ブレヴァル中佐が戻ってきていた。唇に指を当てて、「ですが」と悲しい笑顔で続ける。
「そのことはあまり大きな声では話さないでくださいね。帰ってきたらシティが壊滅していた、という経験は、お三方にもおありでしょう?」
「ああ……すまない、ブレヴァル中佐」
「いいえ。進路プログラムを変更してきたので、もうまもなくステーションにつきますから、しばらくお待ちくださいね――お嬢さん、どうかしましたか?」
見れば、セラの様子がおかしかった。いくら同年代だといってもマリアとの差異は話せば離すほど伺うことができるのに、妙によそよそしくそっぽを向いて、なにもない壁を凝視している。
「い、いえ……ちょっと、お腹が痛いだけです」
「年代ものを渡されたのかもしれないな。地上に出たら、薬を調達しよう……すまないが、それまでは我慢してくれ」
ディーは手の中のチョコをまじまじと見つめ、念のため『陽』の柄に触れてメディカルチェックを行うことにした。
…………、いたって健康。セラには悪いが、運が良かったようだ。
コンテナ輸送用の、椅子もない車両の壁に、祐一とブレヴァル中佐が静かに会話する声が跳ねかえる。
ディーも、会話を聞いているだけで何も言わない。
しばらくそんな時間が続き、ふいにブレヴァル中佐が天井を見上げた。それに気付いてディーも上も見る。機械音を上げてするするとスライドしてゆく、強化ガラス。その向こうに、下りてきた時と同じような、暗い縦穴があった。
「ここを出て少し行くと太平洋です。……繰り返しますが、くれぐれも、このラインのことは内密に」
「そのつもりだ。……ディー、セラ、先に出てくれ」
祐一に頷いて、ディーはブレヴァル中佐のほうへぺこりと頭を下げる。
「このラインのことは誰にも言いません。ありがとうございました」
「……ありがとうございましたです」
その横でセラもお辞儀をして、ディーに続いてとん、と床を蹴った。慣性のついた二人の体はリニアの論理回路が重力を遮断しているかぎり上昇し続け、地上へと体を運ぶ。このようにして、戦時中は多くの物資をやりとりしたのだろう。
ディーがそんなことを考えている間に、偽装のため塞がれている出口へ掲げていた騎士剣がぶつかった。薄いチタン合金の床材を情報解体して、横へ並んだセラと共にステーションへ出る。
広いホールのような場所だった。ある一線をこえるとリニアの重力制御の範囲から外れ、二人の体が本来の重みを取り戻す。着地、ざっと周囲を見まわして対人兵器の類が無いのを見てとり、とりあえずの安全を確認する。
「一時はどうなるかと思ったね、セラ」
「はい。無事に出てこれて、よかったです」
少女のその言には少々大げさなものを感じたが、ディーはとくに問いたださなかった。それよりも、体のことが心配だ。
「セラ、お腹、まだ痛い?」
「え?……あ、いえ、もう治りました」
「よかった。それでも、次の町についたら一応医師に見てもらったほうがいいよ」
「でも……きっと、祐一さんも大丈夫だって言います」
そうかな?と首をひねるディーに少女は語気を強めてそうです、と答える。
そこでディーは、いつのまにか少女の言動が以前のものに戻っていたことに気付いた。少し嬉しくなって、ディーはホコリのついている服をぱたぱたとはたく。見れば、セラも同じようにホコリを掃っていた。……気付けば二人とも、全身ホコリだらけだった。
「こんなにたくさん、どこでついたんだろう……」
セラの顔が凍りついたことに、ディーは気付かなかった。
二人に続こうとして、
「……祐一様」
祐一は振り向かずに立ち止まった。瞑目して、応える。
「……シャノン」
「祐一様はまだ当分、こちらに来る必要はございませんよ」
瞼を閉じた闇の中。
祐一は、かすかに頷く。
「……ああ。……わかった」
そうして、目を開いた。辺りを見まわす。
そこには誰もいなかった。無重力ゆえに積み重なる事の無いホコリが、空中に舞いあがっている空間。そこに、祐一は一人で立っていた。
「…………」
静かな黙祷を捧げ。黒衣の騎士は、跳ぶ。
-fin.
合同葬儀は、粛々と執り行われていた。献花台に花束と、軍の都合で葬儀へ出れないマリアが苦労して手に入れてきたメープルシロップの小ビンを置いて、祐一は震える雪の肩を抱くようにして席へついた。
もう何度目だろうか。よく見知った魔法士たちの葬儀に出るのは。
牧師が壇上から下がり、各シティの幹部から弔詞が贈られ、その他もろもろの手続きが事務的にこなされてゆく。
起立。
元々静かだった場が一層静まりかえる。嗚咽を漏らす者、ひたすら目に涙を溜める者、呆けたように遺品を眺める者。
思いをかき乱すかのようにオルガンが弾き鳴らされ、参列者の90%を占める軍関係者が敬礼する中、棺は次々と運び出されて行く。
――彼女が、死んだ。
どうしようも、なかった。
祐一が気付いた時には戦線の末端にいたはずの新任魔法士の一団が、背後から襲ってきた敵方の主力部隊に蹴散らされていた。そのまま波に乗った敵軍の炎使いたちは生き残ったたった二人の教官役、自分と彼女へと猛攻撃を浴びせてきた。
集団対少数、その上至近距離から放たれる炎や氷のぶあつい壁。さばききれない部分を回避するうちに、彼女との間に決して開けてはならない距離を作ってしまい。それでも攻撃の隙を突いて「自己領域」を展開した時にはすでに遅く、全てが終った後だった。
雪に抱かれてぐったりとした彼女は唇の端からひとすじだけの赤を流し、眠るように目を閉じていた。異常に気付いて雪がかけつけた時にはもう、敵軍の騎士の手にかかって事切れていたそうだ。
怒りはなかった。哀しみもなかった。だから、なにをしても、なにも感じなかった。
その空域にいた敵方の魔法士たちを皆殺しにして、敵艦隊を片端から情報解体の牙にかけ、緩衝区域をたった二人で2000キロメートルも動かし、
それでも、失われてしまった命は、帰ることはない。
だれよりも死を間近に見てきた魔法士だから、その情報制御ですら超えられない絶対法則を、必要以上によく別っていた。
I-ブレインをオーバーフローさせて放心したように崩れ落ちる雪を抱きとめ、祐一は最後の気力を振り絞って「自己領域」を展開し、旗艦へと舞い戻った。薬で雪を眠らせ、嬉々として労をねぎらう上官に葬儀の日程を尋ねた。なんのことか、と問い返され、上官を斬り殺す寸前で居合わせた騎士に止められた。
怒りはなかった。哀しみもなかった。だから、なにを言われても、なにも感じなかった。
――オルガンの音を聞きながら、祐一は思う。戦争が終らなければ、これから先も、彼女と同じようにして消えて行く魔法士はたくさんいるだろう。次に献花台の向こう側へ回るのは、雪や自分かもしれない。
……そうか。……なるほど。
祐一は妙に納得して、離れないよう、離さないようにしっかりと雪の肩を引き寄せる。
「祐一……」
「雪。生きよう」
「……うん」
今はただ、恋人のその言葉だけで、充分だった。
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